当時生きていて、東京都多摩郡野方村(現在の東京都中野区野方)に
住んでいた祖祖母が、関東大震災について言い残しています。

野方村は農村で、田んぼと畑しかなく被害はなかったようです。
現在の下町にあたる東京市が被害がひどかったようです。

関東大震災のあった夏は、異様に暑かったそうです。
地震があってしばらくすると、東の空が真っ赤になったとか。

火災のせいです。三日三晩赤かったそうです。
祖祖母の子ども達は怖くてみな、震えていたとか。

一体どのくらい赤かったのか考えると恐ろしいです。
火事も教科書のイメージより、ずっとひどかったのではないでしょうか。

震災時、神田川、隅田川が煮えくりたったという話があります。
火事の熱さに耐えられなかった人達が、神田川、隅田川へと避難しました。

川は水だから大丈夫だろうと。
ところが火災がひどかったため、川の水が熱くなってしまいした。

沸騰はしなかったと思いますが、水は熱いし、
顔を水面にだして呼吸するにも空気が熱過ぎてできず、
たくさんの人が川の中で窒息死したそうです。あの大きな川が熱くなる…。

政府はすぐ東京の復興を始めます。
というか、それまでの古い日本の街並みを無くし、
新しい近代的な東京を作ることにむしろ燃えていたようです。民衆も。

翌年には「復興節」いうが流行しています。
異様に明るくてびっくりします。ユーチューブで聴けます。

「家は焼けても 江戸っ子の意気は消えない 見ておくれ…中略…
騒ぎの最中にできた子供 付けた名前は震太郎…中略…
震地に震作 シン子に復子 その子が多きくなりゃ 地震も話の種 
エーゾ エーゾ 帝都復興 エーゾ エーゾ」

さらにすごいのは「コノサイ コノサイ コノサイだ 
何でもかんでもコノサイだ コノサイこうしてもらいたい 
コノサイですから勘弁して下さい エーゾ エーゾ コノサイ流行 
エーゾ エーゾ」というコノサイ節。

こんな調子で「この際」色々政府に要求するありさま。
政府も「この際」と民衆に頼みます。

「この際だからメートル法」、「東京、横浜の土地は国有化」
「女性の政治参加」「公園に乗馬場の設置」「帝都の玄関は渋谷」など
多岐に渡ります。明るすぎます。

こういうノリです。盆栽を作っていた人達は、実際、
現在のさいたま市に追い出されています。近代的でないからでしょう。

震災を機に東京は近代都市へと変貌し、民衆もお祭り騒ぎ。

そのファイナルが帝都復興祭
1930年3月24日から昭和天皇を迎えて始まりました。

関東大震災から約6年が過ぎています。
いくら復興したからといって、国をあげて祝うでしょうか。

今なら不謹慎と言われるかもしれませんよね。
天皇の巡幸に始まり、提灯行列が行われ、花電車が走り、
道路には人々で溢れています。

日比谷公園でオーケストラの演奏、舞踏会、映画会。
海外のメディアも参加していたとか。よっぽどうれしかったのでしょうね。
新しい街が。お祭り騒ぎ。

そして帝都復興体育大会なるものまで行われています。
野球、ボート、剣道、テニス、柔道、バスケットボールなど
沢山の競技が行われ、大学対抗戦などが行われました。

この帝都復興体育大会がメインイベントだったみたいです。
この年、「復興の歌」がたくさん出ています。5曲以上。

もう地震から6年経つというのに。
みなさん楽しくてうれしくて仕方なかったのでしょうね。

信じられない明るさ。東京はそんなにステキな街に生まれ変わったのでしょうか。
当時、生きていないのでわかりませんが、花電車の映像を見たことあります。

カルチャーショックでした。派手な車が練り歩き、
歩道の人々が大勢楽しそうに騒いでいました。

地震って楽しいものでしょうか?復興は楽しいかもしれませんが。
明るすぎ。死んだ人のことをみな忘れているみたい。

たくさんの人が死に、事件も起きているのに。
ひどい火事の苦しみは忘れてしまったんでしょうか。

ちょっと異様な盛り上がりです。
地震後6年で何もかも変ったのでしょうか。
狂喜乱舞状態。