帝銀事件とは

1948年(昭和23年)1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で発生した「帝銀事件」は、戦後間もない日本を震撼させた未解決事件である。男が「近くで赤痢が発生した」と偽り、行員とその家族ら16人に薬と称して青酸化合物を飲ませ、12人を殺害。現金16万円と小切手を奪って逃亡したこの事件は、その大胆かつ狡猾な手口から、日本犯罪史上最も有名なミステリーの一つとされている。犯人は「厚生省の医者」を装い、計画的な犯行を遂行したが、動機や正体は今なお解明されていない。

事件の概要:冷酷な手口

事件当日午後3時頃、銀行の閉店間際に背広姿の男が来店。「厚生省防疫班の医者」と名乗り、「近隣で赤痢が発生したため、予防薬を飲むように」と行員らに指示した。男は持参した薬を2回に分けて飲ませ、2回目の服用後に全員が苦しみ出し、12人が死亡、4人が重傷を負った。混乱の中、男は現金と小切手を奪い逃走。現場に残された薬瓶から青酸化合物が検出され、警察は約2,000人体制で捜査を開始した。当時の日本は終戦後の混乱期にあり、食糧難や衛生問題が深刻だったため、「赤痢予防」という口実は信憑性を持ち、行員が疑わずに薬を飲んだ背景が浮かび上がる。

捜査の経過:平沢貞通の逮捕と疑惑

捜査初期、警察は犯人が医療知識を持つ人物と推測し、医師や薬剤師を中心に捜査を展開。現場に残された名刺から、元陸軍関係者や細菌研究者の関与も疑われた。1948年8月21日、画家で元銀行員の平沢貞通(当時56歳)が容疑者として逮捕された。平沢は青酸化合物を入手可能な立場にあり、犯行現場近くで目撃された人物と似ているとの証言が決め手となった。しかし、物的証拠は乏しく、目撃証言や自白に頼った捜査には疑問が残った。平沢は一貫して無実を主張し、「警察の拷問で自白を強要された」と訴えた。1950年7月、東京地裁で死刑判決が下り、1955年に最高裁で確定したが、彼の無実を信じる声は根強く、再審請求が繰り返された。

帝銀事件のその後:2025年現在の状況

2025年4月9日現在、帝銀事件は公式には平沢貞通が犯人とされているが、彼の死後も真相は解明されていない。平沢は1987年5月10日、東京拘置所で肺炎により95歳で病死し、死刑は執行されなかった。彼の死後、遺族や支援者による再審請求が続けられたが、いずれも棄却され、事件は法的には終結している。被害者遺族のその後はほとんど公表されておらず、彼らがどのように事件と向き合ってきたのかは不明だ。2025年現在、事件から77年が経過し、公訴時効(当時15年)が1963年に成立したことで、新たな容疑者逮捕の可能性は消滅している。しかし、インターネット時代に入り、帝銀事件は未解決事件の象徴として再注目され、YouTubeやSNSで平沢の冤罪説や他犯説を検証するコンテンツが増加。平沢の無実を信じる声や、軍関係者による陰謀説を支持する意見が今も議論を呼んでいる。

知られざるエピソード:平沢の人生と他犯説

平沢貞通は画家として活動する傍ら、家族を養うために銀行員の経験もあった人物で、事件前は穏やかな生活を送っていたとされる。しかし、逮捕後の過酷な取り調べで精神が衰弱し、獄中では絵画制作に没頭する姿が記録されている。一方で、他犯説を支持する者からは、事件当時の名刺が元帝国陸軍731部隊の関係者を指す可能性が指摘され、「戦後処理の一環としての強盗殺人だったのでは」との仮説が浮上。青酸化合物の入手経路や犯行の計画性が、個人ではなく組織的な背景を示唆するとされるが、これを裏付ける証拠は見つかっていない。

独自視点:真相の鍵と現代への教訓

帝銀事件は、平沢の単独犯行説と他犯説の間で揺れ、真相の鍵が戦後混乱期の社会状況や捜査の限界に埋もれている可能性を示している。平沢が冤罪だった場合、当時の警察の強引な捜査や世論の圧力が冤罪を生んだ例となり得る。逆に真犯人であれば、彼の狡猾さが歴史に残る犯罪者像を築いたと言えるだろう。2025年の現代では、冤罪防止のための科学的捜査の進歩や司法の透明性が求められており、帝銀事件はその原点として再評価されるべき事例である。事件のその後を追うことは、過去の過ちから学ぶ機会を提供する。

社会への影響と今

事件後、金融機関のセキュリティ強化や毒物管理の厳格化が進められ、戦後社会の混乱を収拾する一助となった。また、平沢の裁判は冤罪問題を浮き彫りにし、後の司法改革に影響を与えたとされる。2025年現在、帝銀事件は日本犯罪史のミステリーとして根強い人気を持ち、映画やドキュメンタリーでたびたび取り上げられる。ネット上では新たな資料や証言を求める動きが活発で、真相解明を願う声は途絶えない。平沢の死後も、事件が残した「誰が真犯人か」という問いと、その背後に潜む戦後日本の闇は、今なお解けないパズルとして存在感を放っている。