日本には多くの埋蔵金伝説がある。
有名なところでは「徳川埋蔵金」や「武田信玄の埋蔵金」、
「結城晴朝の埋蔵金」などまだまだ数多くの埋蔵金伝説がある。
これらの埋蔵金は、戦国大名が滅び落城すると共に、
お家再興のため軍資金を隠したという話がほとんどであるが、
それらの話とは一線を画す話がある。
日本史上唯一、他大名に滅ぼされることなく、
多くの軍資金と共にこの世から消えてなくなってしまったお城がある。
その名は「帰雲城」。
落城でなく天災で滅んでしまった珍しいケースである。
お城があった場所は岐阜県大野郡白川村保木脇。
ただ城の正確な場所は特定されていない。
美濃国の有力豪族の「内ケ島氏」の居城であり、
寛政年間の西暦1462年に内ケ島為氏により築城された。
天正13(1585年)11月29日(新暦1月18日)の午後1時頃に
東海・北陸・近畿の広い地域を襲った天正の大地震により
帰雲山が大崩落を起こした。
当時城主は内ケ島氏理(うじまさ)。
盟友の越中富山の佐々成正が、
天下取りに向け突き進んでいた豊臣秀吉に
反旗を翻したが敢え無く降伏。
氏理は孤立し、秀吉配下の金森長近が内ケ島領内に攻め込む。
勝ち目がないと悟った氏理は長近軍に降伏。
その後に許され居城に帰る。
所領安堵を受けた後、
その一族郎党で祝宴の最中悲劇が起きた。
帰雲城のある帰雲山が突如大崩落を起こし、
一瞬のうちに消え去ったのである。
安土桃山時代の本願寺顕如の右筆である宇野主水の日記によると、
「地震で山がゆり崩れ、各所で川がせき止められて、
内ケ島氏の在所に大洪水が襲来し、内ケ島一族や家臣団、
住民すべてが死亡した。他国へ行っていたもの4人が、
在所に帰ってきたところ、そこは全体がすでに淵になっていた」
と記されている。
つまり、山体崩壊による土砂が庄川の流れをせき止めて、
大きな天然ダムを生じていたのである。
天然ダムは、上流約12㎞にまでわたっていて、
川の水は20日間も下流に流れなかったという。
内ケ島氏になぜ埋蔵金伝説が残っているかという理由は、
鉱山開発に優れた手腕があり、領地内にいくつかの金山があり、
城内に多くの金を貯めこんでいたのではないか、との推測からである。
崩落現場は、現在の城跡と言われている位置とは離れていて、
それも埋蔵金伝説をかきたてる一因になっていると思われる。
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