本能寺の変が起きたのは6月1日。
秀吉がその知らせを聞いたのが
6月3日夜から4日の未明と言われていますが、
この間に毛利川と和平交渉をしており和睦を結んでいます。
その後10日間で200kmを進んだとされる有名な、
中国大返しを行うわけですが、この中国大返しはルートもわかっておらず、
2万の軍勢が馬・徒歩・船に分かれて実質4日間で走破されたと言われてます。
実際これが実現可能なのか、専門家の間では疑問視されてます。
そこに暗躍するのは、日本史でもっとも有名な
軍師黒田官兵衛がいるからだと思います。
本能寺の変から中国大返しのが現実に起こったとすると
3パターンが考えられます。
一つ目は本能寺の変は突発的に起こったもので
黒田官兵衛も予想をしていなかった。
これが現在の歴史的見解ですがだとしたら
この行動力はすごいものです。
2つめはすでに黒田官兵衛が
本能寺の変が起きることを予測していたまたは知っており、
中国大返しの準備を前もって進めていた。
これなら中国大返しが実行できたこと、
毛利の和睦をこのタイミングで進められたことも合点がいきます。
3つ目は黒田官兵衛が本能寺の変の黒幕で、
明智光秀をけしかけたのも実は黒田官兵衛という説。
特に黒田官兵衛は織田信長に嫌疑をかけられ、
息子である松寿丸の切腹を命じられたことがあります。
実際には竹中半兵衛が命令を背き、
松寿丸は九子に一生を得てますが、
織田信長と遺恨が残っている可能性があります。
その中で秀吉を天下人にしたいという思いもあれば、
謀略を実行する可能性は充分にあるのではと思います。
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