明暦の大火江戸時代の3大火事で江戸の約6割を焼失し、
江戸城天守も炎上し、死者は10万人を超えたと言われる
1657年に起きた江戸最大の火事ですが、その出火、火元の原因として
本妙寺出火説火元引受説幕府放火説とたいへん謎めいています。

幕府は放火と決めつけ20名を放火犯として
処刑し終わらせた
わけですから余計に怪しくも感じます。

本妙寺出火説は明暦の大火が振袖火事と言われている説です。

17歳の娘が寺小姓に恋をし、
彼が着ていたのと同じ紫縮緬の振袖を仕立ててもらうが、
彼に会えずに亡くなってしまう。

娘は本妙寺に葬られ、振袖は古着屋に売られた。

翌年今度はその振袖を古着屋から買った娘が
同じように17歳で亡くなり本妙寺で葬られ、
再び振袖は古着屋に引き取られていった。

また次の年に本妙寺で同じことが起き
因縁に驚いた住職は供養の為に振袖を護摩の火に投げ込んだ。

その瞬間に風が吹きつけてきて火のついた振袖が舞い上がり
本堂へと燃え広がったのが大火の原因
と言われています。

火元引受説本妙寺の隣の老中阿部忠秋邸が本当の火元であるが
幕府に頼まれて本妙寺が火元であると引き受けたのではという説
です。

理由はこれだけの損害を出したにもかかわらず
火元の本妙寺がなんのお咎めもなく、現地に再建を許され、
大火の10年後に触頭職に任命され寺格を上げているから
です。

さらに恐ろしいのが幕府放火説です。

放火の理由は飽和状態の江戸の町を
一挙に整備したかったから
と言われています。

前年に吉原を日本橋から浅草に移す計画も決まり、
いろいろと整備計画を始めている時期でした。

しかし江戸城も被害を受けていますし、
火元が3か所もあるのは不自然ではあります。

江戸最大の大火の真相は謎のままのようですが、
その後の江戸の町づくりと防火対策には
かなりの進歩があったことには間違いありません。