藤原不比等は飛鳥時代と奈良時代に活躍した政治家です。

大化の改新のきっかけとなった乙巳の変で
中大兄皇子(のちの天智天皇)に協力した
中臣鎌足(藤原鎌足)の次男です。

大宝律令の選定に参加し、養老律令の編纂に尽力して、
律令制度の確立に努め平城京への遷都を推進しました。

不比等は天皇家との関係を深め、
娘の光明子を聖武天皇の皇后としました。

また、息子の武智麻呂、房前、宇合、麻呂は
それぞれ藤原四家の祖となりました。

当時の官位で正二位右大臣の地位まで上り詰めて、
藤原氏繁栄の基礎を築きました

藤原氏は平安時代に藤原道長に代表されるように
由緒ある絶大な権力を誇った家です。

そのため、藤原といえば名門というイメージを持たれる人もいるでしょう。
しかし、その不比等の台頭については謎があります

不比等は先述の通り、乙巳の変で天皇家に仇をなす
蘇我入鹿を討って活躍した中臣鎌足の子であるので、
抜擢されるのは当然だと考えられます。

けれども、不比等は天武天皇(天智天皇の弟)の時代には
政権から外されていました

それは天智天皇が子の大友皇子に皇位継承することを
不比等は後押ししていたからです。

天智天皇の死後に起こった壬申の乱では
大友皇子と大海人皇子(天武天皇)が争い、
大海人皇子が勝って皇位に就きました。
当然のことながら不比等は抜擢されませんでした。

ところが、持統天皇(天智天皇の娘、天武天皇の皇后)の時代になると
大抜擢されます

その理由は日本書紀が関係していると考えられます。

日本書紀は720年に編纂された歴史書で、
神代から持統天皇までの出来事を漢文で編年体にて記したものです。

編纂者は天武天皇の皇子舎人親王で、
日本書紀は父天武天皇の強い意志がありました。

一般的に壬申の乱で勝利して成立した
政権の正当性を残すためといわれています。

日本書紀では天皇家の祖を女性の太陽神である天照大神としています。

どうして政権の正当性を残そうとした天武天皇ではなく、
女性の太陽神を重視したのでしょうか。

その理由として、不比等が持統天皇を
皇祖神として仕立て上げようとした可能性が高い
からです。

持統天皇は天武天皇の皇后ですが、
同時に天智天皇の娘です。

そのため歴史書の中で持統天皇を皇祖神とすれば、
それ以降の天皇はすべて天智天皇の流れをくむことになります。

つまり日本書紀は天武天皇の政権の正当性ではなく、
天智天皇や持統天皇の政権の正当性を示したもの
と考えられます。

そうすると、天智天皇の時代に活躍した中臣鎌足の息子なのだから、
重用されて当然、不比等はそのように考えていた
ようです。
実は、日本書紀の編纂には不比等の影響が強かったといわれています。

藤原不比等はなぜ台頭したのか、それは不比等が持統天皇を皇祖神にして、
絶対的な力を作り出して自身の出世をはかった
ということです。