平安時代、紫式部と並ぶ才女として知られた清少納言

枕草子を書いた歌人であり、梨壺の5人に数えられる
歌人・清原元輔晩年の子です。

陸奥守橘則光と結婚し、1子を産みますが、
実名や没年、死亡場所が不明で、晩年の消息が全く分かっていません。
そんな清少納言の墓が徳島県鳴門市里浦町にあります

地元に残る伝説によると、
夫と離婚後に仕えた中宮定子が死亡したあと、
宮仕えをやめ、京都から鳴門へやってきました。

しかし、地元の漁師に辱めを受け、
これを悲しんだ清少納言は海に身を投げて自殺した
というのです。

清少納言の霊を弔うために地元の人たちがお堂を建て、
あま塚と呼んでいます

あまりに恥ずかしい伝説からか、鳴門市史に掲載され、
簡単な案内板が設けられているものの、観光イベントなどはなく、
自動車1台がやっと通れる田舎道の奥にひっそりと安置されています。

清少納言の墓と呼ばれる場所は他県にもありますから、
鳴門が本当に最期の場所だったかどうかは定かではありません

ただ、地元の郷土史家が、都から来た女性を初めて見た鳴門の漁師が
あまりの優雅さに驚いて見境なく襲いかかってしまい、
祟りを恐れてお堂を建てたのではないかと解説しているのを聞いたことがあります。

その女性の名前も分からないので、
有名な清少納言としたのではないかというのです。

このお堂には他に日本書記に登場する海士の男狭磯や
遠流となった土御門上皇の火葬塚(天塚)だという説もあります。

どちらも「あま」という名前から連想した伝承のようです。
ただ、地元では清少納言の墓と信じられています