長野県信濃町、駅は「黒姫高原」です。
ここに野尻湖があり、寒冷な気候ですので特に夏のレジャーで訪れる人が多いです。

野尻湖一周の遠泳大会も行われています。
小学校の担任の先生がこの地元の出身で、「黒姫伝説」や「野尻湖言い伝え」を
よく話してくれました。

大きさは諏訪湖のような大きさではないのですが、
水深が相当あり夏でも表面は冷たくなくても、
泳いでいるうちに氷のような冷たさを感じたと思ったら
足を引っ張られて沈んでしまう、それがこの麓に住む「黒姫」の嫉妬
であるという話がありました。

夏には何回も泳ぎに行きましたが、
深い方へは恐ろしくて行く気になれませんでした。

そして、この野尻湖の真ん中には赤い鳥居の「弁天島」があり、
ここも先生の言い伝えで、女の神様弁天様は嫉妬深いから、
もし湖に沈んだら男は引きずり込まれ、女性は助かる、
という説と女性が引き込まれるという両方の説を聞いたような気がします。

ですので、ボートを漕いで弁天島に上ることはイコール参拝と考えていました。

今考えれば先生の話は、水難事故の心構えだったのでしょうが、
小さい頃に聞かされた話は疑うこともなく、この湖自体私は全体が
「ご神体」のような認識があります。

数年前、なぜ?というよりなるべくして起きた事故としか思えませんでしたが、
ある私大の合宿で男女が弁天島で「恒例の?」飛び込みをやって
2名の男女が亡くなりました。

それは5月の連休と聞き季節的にもありえない行為で、
弁天様も助けようもなかった結果に終わったのだと思います。

地元の人たちからすれば、伝え聞いた私以上に
ここの湖への信仰は厚いと思いますが、表向きはそんなことは言えません。
ご冥福をお祈りするばかりです。

また、「黒姫伝説」はたくさんの種類があるようですが、
一般的なものと私の知っている信濃町に伝わる2つの伝説を調べて見ました。

黒姫伝説

戦国時代、小館城主、高梨摂津守政盛に黒姫という可愛らしく、賢い娘がいた。
ある日、政盛は家来を連れ東山で花見の宴を開いた。

同席していた黒姫の姿を見た大沼他の主は、自分に貰い受けたいと、
立派な侍に化け、政盛に懇願したが断られた。

そこで侍は、思い切って自分の素性を打ち明けた。
政盛は、大蛇に一人娘をやるわけにはいかないと、難題を持ちかけた。

その難題に、大蛇は傷つき動けなくなった。
政盛は死んだものと思い、約束を守らず城に戻った。

死ななかった大蛇は怒って、一族の四十八他の主と共に池の水を一度に押し流した。
箱山のお陰で城は流されずにすんだ。

しかし黒姫は、大蛇の恨みを受けながら生きていけないと、
信濃と越後の境にある池に身を投げて死んでしまった。
その後、この山を黒姫山というようになった。

中野祇園祭の日には、空が曇り雨が降るという。
この時、黒姫が雲に乗って、小館城に里帰りするといわれている。

黒姫様と七つ池

むかし、信州中野の箱山峠のふもとに室町時代後期、高梨様のお城があって、
そこに、黒姫様ともうされる、たいそう美しい姫様がおられました。

ある春のこと、高梨様は数人のお供をつれて、奥方様や姫様といっしょに
琵琶池のほとりへ花見にでかけました。

高さ六十尺(約180メートル)ものカンマン滝を近くにし、
四方の山々をながめながらの花見の宴に、たいそう満足なさって城にもどられました。

さて、その翌日、琵琶城の城主だとなのるりりしい若者が高梨城に現われて、
「黒姫様を妻にいただきたく思いますので、おとりつぎを願いたい。」と、もうします。

門番のものが、「おとりつぎの前に、お名前をお聞かせください。」と、
たずねたところ、なんにもこたえないまま、姿を消してしまいました。

つぎの日も、またつぎの日も、その若者が城にやってきては、同じことのくりかえしです。
そこで、数日が過ぎたある日のこと、高梨様は、もしかしたらなにかの変化ではないかと
うたがいながらも、その若者に、「明日、わしが城のまわりを馬に乗り三度まわろう。
それと同時にかけて、わしを追いつめることができたならば、姫を妻とするがよい。」と、
もうされました。 

若者は、「承知いたしました。では、明日あらためてうかがいます。」と、こたえて姿を消しました

あくる日、乗馬した高梨様と若者は、太鼓の合図にとび出して、城のまわりをまわり始めました。
若者は、必死で馬に追いつこうとしますが、そこは、馬術の名手の高梨様のこと、
若者はついに追いつくことはできずに、負けてしまいました。

しかも、城のまわりにしきつめられた角石で傷ついたのか、
若者は、血を流しているではありませんか。
若者は、なにもいわずに姿を消してしまいました。

高梨様は、家来に若者の血のあとをつけさせました。
するとそれは、先日、花見にでかけた琵琶池のほとりで消えていました。

しかし、そこには誰の姿もなく、またこれといって変わったこともありませんでしたので、
家来たちは、そのまま城にもどりました。

ところが、五十日ほど過ぎたある日のことです。
黒姫様が、髪の手入れをなさろうと鏡をみたところ、胸いっぱいにうろこができて、
まるで蛇のようではありませんか。

姫様は、しばらく奥の間にとじこもっておられましたが、
うろこはますますひどくなるばかりです。

ご両親様のおどろきと嘆きは、いいあらわせないほどでしたが、
なすすべもなく、姫様は高梨様の領地である柏原へ、身をかくしたのでした。

そして、そのむかし地雷也がたてこもっていたといわれる山に登ると、
くしや鏡など、ご自分の七つ道具を投げすてられたのです。

すると不思議にも、そのお道具は七つの池となりました。
やがて、黒姫様は弁才天女となられ山の主となりました。
それから、この山を黒姫山と呼ぶようになったといわれています。

さて、中野の高梨様のことですが、黒姫様が城を出られてから、中野は豪雨となり、
高梨様のご城下は、お城までもすべてが押しながされてしまったそうです。

そして、これも、琵琶池の主のたたりではないかと人々はうわさしました。
その後、ご城下を恋しく思う黒姫様は、毎年中野の祇園におでかけになるそうで、
その時はどんなによく晴れた日でも、たとえ三つぶでも雨が降るといわれています。