乙巳の変で有名な中臣鎌足だが、
のちの藤原鎌足、そして平安に栄華を極める
藤原道長の祖先でもある。
中臣鎌足は乙巳の変以前は
神祇の職についていたとされる。
しかし当時この職はなかったとされ、
また、中臣鎌足の父母のことは資料として残っていない。
これは中臣鎌足が成りあがり者だったということではないか。
百済王である豊璋は唐に敗れて、
日本で逃げ隠れるために中臣鎌足に名前を変えて
日本人に成りすます。
そして蘇我氏をうちとるのに丁度いい中大兄皇子と乙巳の変を起こし、
蘇我氏を滅亡に追い込み、自分は内臣という職に就く。
内臣は、法律で保証された正式な職務ではない。
臨時職なのである。
そして、蘇我馬子が聖徳太子だとすると、
憲法17条を作ったのは蘇我氏ということになる。
現朝鮮人の血が流れる中臣鎌足からすれば
とんだお人好しの憲法でいけすかなかったに違いない。
日本書紀が藤原氏に都合良く書きかえられているということなので、
本当は国民の支持を得ていた蘇我氏を倒したのが藤原家というのは
都合の悪い記述なのである。
蘇我氏を悪者にしなければならない。
しかし、蘇我氏には冠位12階や、
憲法十七条という素晴らしい実績がある。
これを失くしてはさすがに歴史は語れない。
なので聖徳太子という架空の人物を登場させる。
架空と言うか厩戸皇子なのだが、
ここは血がすでに途絶えている。
蘇我氏が撃ち殺したことになっているが、
本当は中臣鎌足にやられたのではないか。
聖徳太子は聖人としてみんなに慕われていたという。
きっと蘇我氏もみんなに慕われていたに違いない。
中臣鎌足という朝鮮人により、
悪者に変えられて今の歴史に刻まれてしまっている。
そもそも馬子なんて名前変だし、蝦夷もひどい名前だよ。
私は藤原氏が嫌いだ。
2016年7月7日 at 1:36 PM
管理人の見解ではございませんので、ご承知の上推察ください。
2016年7月20日 at 10:51 AM
蘇我入鹿といえば大化の改新(乙巳の変)で中大兄皇子と中臣鎌足によって殺された悪者として日本史で習いますが、実はこの蘇我入鹿という人物は果たして悪者であったのかという謎が近年言われています。まずこの時代のことについて書かれた歴史書といえば日本書紀です。日本書紀に関しては多く矛盾することが多く学者の中でもいろんな説がある書物なのですが、実は中臣鎌足の子藤原不比等とその子供藤原四兄弟によってでっちあげられた書物なのではないかとの見方があります。藤原氏が編纂したということはその父中臣鎌足と天智天皇のやったことを正当化するために行ったと考えるのが普通で、そこで蘇我入鹿を悪人にでっちあげたというのが一説にあります。よく考えれば入鹿・蝦夷・馬子という名前からして後世の人が与えた蔑称だと思います。ですから蘇我入鹿という人物は中大兄皇子が権力をもつのに邪魔となった人物で殺された。そして日本書紀で悪人となり後世まで語り継がれているというです。しかしながら実際は蘇我入鹿は大変な政治家で仏教や大陸の文化を取り入れたりとかなりの功績を残した人物だということで、一部にはこの記事のように蘇我入鹿こそ聖徳太子なのではないかという説もあります。(法隆寺夢殿の救世観音像が岡倉天心とフェノロサによって開かれるまで1400年ずっと秘仏だったのですが、この仏像は聖徳太子の生き写しされています。しかし一説によると蘇我入鹿を模して仏像を造り、その祟りを鎮めるため開帳することなく夢殿で1400年も閉じ込められていたという話もあります。)どちらにせよ歴史は勝ったものが正義です。謎はわかりませんが考えてみるのもロマンだと思います。