淀殿は織田信長の妹、
お市の方と浅井長政との間に生まれました。
幼名は茶々。豊臣秀吉の側室。
父の浅井長政は、織田信長との対立により自害。
兄の万福丸は、信長の命で羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)
によって処刑されました。
本能寺の変で織田信長が殺された天正10年、
母のお市の方が織田家家臣の柴田勝家と再婚しました。
しかし秀吉と勝家が信長の跡目争いで対立。
勝家が敗れたため、お市の方は勝家とともに自害しました。
その後、秀吉の保護を受け、
皮肉にも自分の周りの人たちを死に追いやった秀吉の側室となりました。
秀吉は女好きでよく知られ、
正室ねねを初めとして多くの側室を置いていましたが、
子宝には恵まれませんでした。
秀吉に何か問題があったとも言われていますが、
その多くの側室たちの中で、淀殿だけが子供を二人も産んでいます。
最初に産まれた子の鶴松は幼いころに病気で死んでしまいますが、
次男秀頼を産んだことにより、豊臣家の実権を握ることとなります。
しかし秀頼は、秀吉が60歳を過ぎてからの子供。
このことから鶴松、秀頼は、実は秀吉の子供ではなく、
淀殿が誰か別の者と通じて出来た子供ではないかという説があります。
秀吉の寵愛を一身に受け、
秀吉が亡くなった後は大阪城に君臨しました。
徳川家康を敵に回し戦いましたが、
敵わずに燃える大阪城の中で、
息子秀頼とともに自害したとされています。
しかし淀殿の最後を見た者はおらず、
遺体も確認されなかったため、
逃亡、生存説などが生まれるようになりました。
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