源義経の父は源義朝、母は常盤御前、
兄は2人の母と父を同じくする兄弟で3人兄弟。

出家するのを嫌がり、
奥州藤原氏の藤原秀衡の保護を受けました。

そんな中で起こった1180年の「平氏を追討せよ
という命令が全国に発せられました。

この時は平氏に敵対した神社や仏閣が
源氏の兵士に味方していた源氏の一部が負けて、
自害した程度で済んでしまいました。

しかし、事はこれだけに留まれませんでした

満を持して源頼朝が北条と手を結び
平家打倒をやってきました。

最初の戦いは石橋山の戦いでは負けてしまったものの、
この事を知った源義経が奥州から駆けつけてくれたのです。

まず、川をまたいで攻撃の布陣をしていた時、
農民ら多数の人を借りてどれほど兵士がいるんだ

と思わせるために炊事の煙や森の木を燃やしたりしたこともあり、
水鳥の鳴く声は羽ばたく姿に右往左往して
一戦も交えずに勝った事はありました

ですが一の谷の戦いと壇ノ浦の戦い
明らかに義経は非常に卑怯者だったと言えます。

まず一の谷の戦い

実はこの時、後白河法皇の命令により、
停戦協定が結ばれることになっていました。

しかし、義経はそれを利用し、戦う事を辞めず崖の上から
シカも馬も4本足だ、シカにできて馬にできないはずがない」と言い放ち、
鵯越を敢行し、結果大勝利となったわけです。

壇ノ浦の戦いに関しても当時「海戦の際、鎧兜を付けた武者と戦うのはいい。
だが船頭や水主は非戦闘員だから攻撃してはならない
」という不文律も
「戦場にいる以上皆戦闘員だ」と言い放ち相手の動きを止めるために
船頭や水主を攻撃して、動けなくしたのです。

源氏が勝ったから皆このことに触れる人は少ないでしょう。
でも間違いなく義経は勝って官軍となった奴です。

その辺を理解して義経などの歴史を見てください。