1613年仙台藩主伊達政宗
スペイン国王フェリペ3世とローマ法王パウルス5世のもとに
使節団を派遣
しました。

慶長遣欧使節と呼ばれるものです。

正使はフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ。
副使は伊達家家臣の支倉六右衛門常長です。

さて、この慶長遣欧使節ですが
旅の工程の史料は非常に多いため研究も進んでいますが、
肝心なところが未だ謎に包まれています。

それらのほとんどは副使、支倉常長に関わるものです。

一つ目、「なぜ支倉常長が使節団の副使という重要なポジションに選ばれたのか
二つ目、「常長の墓所はどこにあるのか

この二点は史料も乏しく、
慶長遣欧使節屈指のミステリーとされています。

では一つ目の謎について説明しましょう。

支倉家は代々伊達家に仕える家系でしたが、
伊達家家臣で有名な片倉家や茂庭家とは
比べられないほど小さな家でした。

古くから仕えているという忠臣だから、
重要な役目を賜ったと考えるのが妥当ですが、
果たしてそうでしょうか。

支倉常長は戦では地図を読むことに長けた
鉄砲隊の隊長程度の役割しかしてきておりません。

語学に堪能なわけでもありません

彼の実父は切腹を命じられ、
常長は改易されたことがあるという記録もあるため、
不祥事を起こした家」という印象は拭い切れません。

当時はキリスト教に対する目は厳しい時代でした。

この使節団の派遣も成功するかは
政宗の中で五分五分だったのかもしれません。

失敗すれば日本に帰って来ることは難しいですし、
長旅を考えれば死んでしまう可能性もあります。

恐らく支倉常長が選ばれた理由
別に失敗しても痛手にならない程度の人物だったから
ではないでしょうか。

逆に信頼関係が出来ていたとする説もありますが、
真相はよく分かっていません。

二つ目の支倉常長の墓所についてですが、
現在宮城県内に3か所あります。

仙台市青葉区光明寺柴田郡川崎町円福寺黒川郡大郷町です。
常長自身は帰国後一年足らずの1621年に死去しています。

しかしいずれの墓所も没年が異なり、
円福寺に関しては墓とされているものが
五輪塔で没年の記載が無い。

また大郷町の墓所には承応三年(1654)とあり、
史料の没年と大きな差異があります。

他にも宮城県大和町にも常長の墓についての伝承が残っているなど、
宮城県内に複数個所埋葬地に関する伝承が残っています。

いずれも状況証拠や伝承ばかりで、
正確な墓所は未だ不明のままです

偉業を成し遂げたにも関わらず、
支倉常長という人物は非常に謎が多い
です。

是非みなさんもこのミステリーに挑んでみてください。