織田信長が明智光秀による謀反により
本能寺で自害へと追い込まれたとされる「本能寺の変」。
戦国史の中であまりにも有名なこの事件には
謎が多いとされています。
明智光秀はなぜ謀反を起こしたのか?
本能寺の変は光秀一人によるものではなかったのではないか?
本能寺の変において、
明智光秀が挙兵した理由、動機については複数の説があります。
四国攻め回避説
四国で信長と同盟関係にあった長曾我部元親が
四国統一を許されていました。
信長と元親の同盟を取り持ったのが光秀です。
信長は、方針転換により、長曾我部元親に土佐一国を安堵、
ほかは召し上げると決定します。
言うことを聞かない元親を討伐することになりました。
同盟工作をしていた光秀のメンツは丸つぶれです。
光秀の家来、斉藤利三は元親と姻戚関係にあります。
光秀は信長の四国討伐をやめさせるために
本能寺を攻め信長を殺そうとしたと言う説です。
光秀は生きていて、天海になった
光秀は、羽柴秀吉との間で行われた山崎の合戦に敗北した後、
逃げ延びて南光坊天海という僧になり家康に仕えたという説です。
天海は長寿で108歳まで生きたと言われています。
なかなか面白い話なので、テレビドラマなどでもこの説がよく採用されています。
信長も生存し、海外へ逃亡or大阪城に幽閉
本能寺の焼け跡から信長の遺体は発見されなかったとされています。
このことから信長は本能寺の変の後も生きていたと言う説が生まれました。
イエズス会の手引きで海外へ逃亡した、
秀吉に見つかり大阪城に幽閉された、などがあります。
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