戦国時代の華やかさと言ったら、
「武田騎馬軍団」「川中島の幾度に渡る戦い」
そしてもう一つ「鉄砲集団雑賀衆」ではないでしょうか。
先述した二つに比べてかなり地味ではありますが、
かなりロマンがあります。
彼らは漁業や貿易を中心に生活を営む
職人組合のような集団でしたが、
日本に伝わった二つの鉄砲のうち一つが彼らの住む
紀伊半島に伝わり、改良を重ねて技術も高めて行きました。
結果、彼らは戦国最強の鉄砲傭兵集団へと変貌していったのです。
雑賀衆は本願寺の要請を受けて戦に参戦したことから、
長きに渡って織田信長と対立しますが内部分裂を起こして降伏。
織田信長の死後は豊臣秀吉に仕えますが、
紀伊半島の支配を認められず対立し、
紀州征伐を経てやがて雑賀衆は滅亡します。
そんな雑賀衆を率いていたのは雑賀孫市なる人物でしたが、
彼についての史料は非常に乏しく
どんな人物だったかは謎とされています。
鉄砲隊長である鈴木重秀とする説や、
鈴木家の当主である鈴木佐太夫、
また鈴木重秀の兄すべてをひっくるめて「孫市」と
呼ぶというものが現在は有力な説です。
孫市という名前は代々リーダーに受け継がれるもの
だったということかもしれません。
そんな雑賀孫市ですが、豊臣秀吉の紀州征伐の後に
雑賀衆が滅亡してからの消息は分かっていません。
様々な話が伝わっていますが、
1589年に亡くなったとある墓所も存在します。
ですが、関ケ原の戦いで西軍について戦ったとする話や、
関ケ原の戦い以降仙台藩主伊達政宗に気に入られ
仕えたという伝承も残っています。
ここで重要になってくるのが「雑賀孫市の正体」です。
実は雑賀衆滅亡以降、
各地方に雑賀を名乗る人物の名前が多数見受けられます。
これは滅亡して散り散りになった残党が大名に召し抱えられて、
「雑賀衆出身者」ということで雑賀という
姓を名乗ったのではないかと考えられます。
先述した「孫市複数人説」を鑑みると、
1589年に亡くなったのはたくさんいる雑賀孫市の誰かなのでしょう。
そして伊達政宗に仕えたのも、
たくさんいる孫市の誰かか雑賀衆の残党の一人だったと考えられます。
しかし、いずれにしても雑賀孫市のその後については
正確な史料が少ないため、多くの謎を残しています。
華々しく戦国合戦を彩った鉄砲集団のリーダーは
一体どんな人物だったのか…気になるところです。
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