真田信繁(幸村)大坂の陣において死亡せず
影武者などを使い、豊臣秀頼と共に
鹿児島へと逃げ落ちのびた説
がありますが、
その説には続きがある事を御存じでしょうか?

今回は真田信繁生存説を扱った都市伝説、
真田信繁天草十七人衆説を紹介したいと思います。

まず信繁が秀頼を連れ大坂から逃げ延びた後、
鹿児島こと薩摩の島津へと逃げ落ちのびます。

そこで体勢を整え再起を図ろうとしますが、
秀頼は気を病んでしまい、そのまま病を患ってしまいます

そのまま豊臣再興の夢は潰えようとしますが、
秀頼には息子がいたのです。

逃げ落ちた島津において秀頼は、
そこで知り合った女性の間に子を設け、
息子である秀綱を授かってい
たのです。

秀綱……そう、後に天草四郎時貞と呼ばれる事となる、
島原の乱においてキリシタンのカリスマ指導者となる彼こそが、
豊臣家の遺児だった都市伝説が存在しているのです。

この都市伝説においては諸説が様々とあり、確証などは不明ですが、
その天草四郎を陰から助けていたのが、あの真田信繁だったのです。

大阪から逃げ延びる際、真田信繁の部下
森宗意軒と呼ばれる人物がいました。

この人物は当初、小西行長の元で朝鮮貿易を行う船頭として
貿易商の手伝いとして働いていましたが、
ある日自身が乗る船が難破してしまい、遭難後にオランダ船に救われ、
そのまま南蛮へと渡り、その後大陸を経て中国へと移り、
学問や医学を学び、その後に日本へとようやくに戻ります。

しかし、体制がガラリと変わってしまい、
仕えていた小西行長の配下であったことで
迫害を恐れ高野山へと僧侶として身を潜めていた中、
信繁と出会い彼の配下として、後の大阪の陣に参戦する事になります。

真田丸の活躍も彼の活躍があったからこそと言われており、
信繁の重鎮とも言える程に信頼の厚い人物だった彼。

実はオランダに渡った際、キリスト教会と関係を持ち、
日本のキリシタン教会とのパイプ役となり、
豊臣再興の計画を立てた人物でもあるのです。

天草四郎を救世主として演出させ、
迫害されていた農民やキリシタンを決起させ、
豊臣再興の足掛かりとして、
真田信繁と共に島原の乱へと挑んでいきま
すが、
彼の計画は途中から暴走していく事になります。

まず味方であったキリスト教会が徳川方へとついてしまい、
頼みのオランダ側の加勢を得る事が出来ず、
また信徒の度重なる暴走などが重なり、
島原の乱はやがて敗北へと転がっていく事になります。

真田信繁が天草十七人衆の一人だった説や、
また小西行長の部下である千束善右衛門と名乗っていたなど、
その都市伝説には枚挙にいとまがない程ですが、
その真意を知るすべはなく、ただ真田信繁が島原の乱に
参戦していたとの伝説があるだけ
です。

信繁がこの島原の乱において最期を迎えた可能性もありますが、
また生き延びた説もあり、彼の生存がどれだけ多くの人に
望まれていたかが解る、そんな都市伝説
です。