江戸時代に起きた島原・天草一揆。
その一揆をまとめ上げたのが
天草四郎(益田時貞)といわれています。
四郎はキリシタン信仰の復活、
そして重税からの解放を掲げた一揆をまとめ、
原城に立て籠って江戸幕府軍と戦います。
しかし最終的には城内の食料が尽きて、
幕府軍の総攻撃を受けて原城は落城し、一揆は壊滅します。
四郎も幕府軍に討ち取られたといわれ、16年の短い生涯でした。
しかし幕府軍は四郎の素性を知らなかったので、
四郎の首だとされたものがたくさん出てきて、
みな四郎と同じぐらいの年齢の少年のものでした。
その中で、幕府に捕らえられていた
四郎の母親が見て泣き崩れたものを四郎の首と断定したのです。
その四郎とされる首が一揆壊滅後にたくさん出てきたことから、
実は天草四郎は複数人いたのではないかという説があります。
四郎は一般的に、西洋風の羽織やマント、襞襟の姿が有名ですが、
四郎が生存していた時期の肖像画はありません。
そのため、一般的なこの姿は後世の創作です。
四郎は一揆をまとめ上げてはいましたが、
一揆を実質的に指揮していたのは浪人などで、
四郎は戦意高揚のために利用されていたに過ぎないという話もあります。
農家出身の16歳の少年が
一人で軍事的指揮を執ることはほぼ不可能だと思います。
ですが、これが複数人いれば話は変わります。
名目上の軍事的指揮も執りやすいでしょうし、
一揆の戦意も一人のときと比べれば格段と高まるでしょう。
また幕府に素性が知られていないので、
いざというときの影武者のような機能を果たしていた可能性もあります。
天草四郎の正体については複数人説の他に、
豊臣秀頼の落胤という説もありますが、
いずれもはっきりした証拠はありません。
しかし、この謎が天草四郎の神秘性、
そして魅力につながっているのかも知れません。
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