東洲斎写楽は、
江戸時代中期のわずか10か月しか活動していなかった
浮世絵師
であり、その正体は謎に包まれています。

写楽の正体について様々な説がありますが、
近年有力なのは、能役者が別名で
浮世絵師として活動していたという説
です。

江戸時代の美術史料「増補浮世絵類考」には、
写楽とは八丁堀に住む斎藤十郎兵衛という
能役者である
と記されています。

斎藤十郎兵衛は阿波国徳島藩主の蜂須賀家に雇われた能役者で、
当時、八丁堀にあった徳島藩の屋敷に住んでいました

そして写楽が住んでいた場所について、
江戸の文化人の名簿「諸家人名江戸方角分」には、
八丁堀地蔵橋に写楽斎という人物が
住んでいた
ことが記されています。

写楽の作品の題材となった芝居小屋や、
写楽の作品を出版した蔦屋重三郎の店が
八丁堀の近くにあったことから、
写楽が八丁堀に住んでいた可能性が高いです。

さらに「東洲斎(とうしゅうさい)」は
「斎、藤、十(さい、とう、じゅう)」を
並べ替えて作られた名前
だと推測できます。

問題は、斎藤十郎兵衛が実在したのかということです。

長い間、実在したかどうかを確認できませんでしたが、
近年の研究により実在したことが明らかになりました

蜂須賀家の古文書「蜂須賀家無足以下分限帳」や
能役者の公式名簿「猿楽分限帖」に
斎藤十郎兵衛の名前が記載されています。

そして、法光寺の過去帳には、
八丁堀に住む斎藤十郎兵衛が火葬されたという記述があります。

しかし、斎藤十郎兵衛が実在したことは確実なものの、
写楽と同一人物だという決定的な史料は見つかっていないので、
まだ謎は解明しきっていないです。