徳川家康は天文十二年(1543)
三河の豪族松平広忠と於大(おだい)の間に生まれます

当時松平氏は大国の今川氏に付いていました。

しかし、於大の生家水野氏の当主水野信元が
今川氏と敵対していた織田氏についてしまいました。

この出来事が原因で於大は離縁されて、
実家の水野家に帰ります。
幼い家康は母親と別れることになりました。

その於大は天文十六年(1547)に尾張の久松俊勝と再婚し、
3男4女をもうけています。

この久松氏は江戸幕府下では
家康の弟の家系ということで優遇されました。

このように家康には父親違いの兄弟がいました。
また、母親違いの兄弟がいたとされます。

戦国時代の頃は現在のように一夫一妻ではなく、
武家などでは一夫多妻が基本でした。

さらに家康には父親違いの弟がいたといわれ、
名前は元信といいます。

明治時代に出版された『史疑徳川家康事蹟』によると、
その元信は母親が於大、父親が清和源氏新田氏の血を引く
江田松本坊という時宗の僧
であると記されています。

しかし、父親の江田松本坊は
行方知れずになってしまった
といいます。

元信は三歳になるまで
母於大の再婚先である久松俊勝の家で暮らしていました
が、
康元(俊勝と於大の子)が生まれると、
家康の祖母源応尼(於大の母親)のもとに送られ、
六、七歳の頃に知源院という寺の住職、
智短上人の弟子
となって、浄慶の名前をもらいました。

しかし、元信は殺生の禁を破り、破門されてしまいます。
放浪しているときに人買いに売られて、
願人坊主(依頼を受けて人に代わってお参りをするなどした僧侶)
の家に引き取られます。

そこでの厳しい修行や見聞を広めたことによって成長していきます。
その彼が後に家康の影武者になったという説があります。

桶狭間の合戦後、今川氏から自立した
家康(当時は松平元康という名前)が家臣に暗殺され、
代わりに元信が元康の影武者という形で当主になりました。

元信と元康は母親が於大なので、
父親が違っていても顔つきは似ていたかもしれません。

赤の他人ではないので、家臣達の混乱も
それほどなかった
と思われます。

元信が影武者になったということは、
少なくとも元康暗殺前から
松平氏に仕えていたということになります。

元信と元康はどこかで会って、
その縁で元信は仕えることになったのかも
しれません。

もし、元信が影武者として徳川家康となって
天下を治めた
とするならば、
歴史学的に見ればそれは大事件です。

しかし、一般の人々からすればあまり関係のない話かもしれません。

本当に元信という弟がいたのかどうかは分かりませんが、
もしそうであれば教科書で学んだことが
すべて驚きに変わると思います。