ボクがAに薩摩藩の怪談について聞くとAはこう答えた。

「ある薩摩藩主は、病気もあって隠居すると現在の鹿児島の磯にあった隠居所で生活しており、息子の島津玄蕃がその代理人として行動していた。」

「さて、仙巌園では江戸で家臣が購入した白鷳(ハッカン)という鳥が元薩摩藩主の側室・お源のペットとして飼われていたけど、ある日、ペットの白鷳が狐に食い殺されたんだと。」

「それで、元薩摩藩主は息子の島津玄蕃に狐狩りをすることを命じました。島津玄蕃は城下や外城の武士を率いて享保10年(西暦で1726年)の5月から6月に渡り吉野の山に入って狐狩りを決行したんだと。その結果、狐数匹とともに、高さ5寸(150cm)、8足で、一つ目で目が赤い怪物を捕獲したのだとか。」

稲荷を崇拝していることで有名な薩摩藩でそんなことがあったとはな。まあ、「大石兵六夢物語」があるから無くはないんだろうけど。稲荷は狐じゃなくジャッカルとも言われるし

「ここまでが薩摩藩主家島津氏の編年史として、造武館教授を中心に編集され、享和2(1802)年に完成した「島津国史」において、「狐狩記」を原点にして書かれた話で、それでは、どうも怪物はサンショウウオと考察しているらしい。ひょっとすると『大石兵六夢物語』のモデルの一つであった可能性すらあるかも。」

まあ、吉野にサンショウウオというのは珍しい話ではあるけど、これのどこが怪談なのか?という僕の疑問に対してAはこう答えた。

「実は、この話には『島津国史』では省かれている、儒学者が嫌いそうな続きがあるんだわ。」

「狐狩りをやった後で祟りがあったらしい。狐狩りをした年の秋に玄蕃の母方伯父が亡くなり、その翌年に前藩主とお源の娘のお弘が他界して、お源や玄蕃の3人の子供も後に続いたんだと。」

享保の飢饉や流行病とはいえ、偶然とは恐ろしいものだとAの話を聞きながら思った。

「その後も前藩主の別邸の祠に誰のか分からない指先爪が供えてあったり、前藩主の長男で玄蕃の兄だった当時の藩主も病気で倒れ、果ては玄蕃の母や長女が亡くなったりしたんだとさ。玄蕃の長女が産後に亡くなった翌年に、玄蕃は別荘において稲荷三社大明神という神社を建立したのだそうです。」

偶然にしても続き過ぎだろと思わざるをえない。それで話が終わるかと思ったらAが

「しかし、稲荷三社大明神が建てられた翌年に、前藩主も亡くなった」

オイオイ、神社を建てた後に亡くなっているけど、祟りと関係あるのか?と僕がAに問うと、Aはこう答えた。

「結局玄蕃は長生きした訳だけど、多分祀るモノを間違えたか足りなかったのかも知れないな」