千の利休は忍者だったと聞いて、私も初めは、半信半疑で「まさかでしょう」「そんなばかな」が頭をよぎっていました。ちらっと、そのような都市伝説はきいたことがありました。その後、興味をもち、文献などを広く読み漁り、情報をあつめをしました。

ある時、せんの利休がうたった俳句のなかに、徳川秀康につかえ、そして自身がいままで行ってきた戦事を長い間にわたり支えてきたと思われる俳句(うた)があることもわかりました。

俳句(うた)の文言はノストラダムスなどの予言とおなじで解釈(見方)をかえれば、「どうにでも解釈できる」ものです。しかし、利休はあくまで俳句人(歌人)です。こととして起きたことを綴っています。

そのいみで、徳川につかえ、戦を乱じてきたことがうたわれているならば、事実にもとづいた内容であると考えるべきです。都市伝説になっているのは、「利休」がかの有名な「服部半蔵」であったのではないかということです。

戦にすぐれ、戦闘力がたかく、徳川を終始守っていた忍者部隊であったということです。現代でいう、USAの「シールズ」と同等のものです。その理由をあげるのなら、俳句人(歌人)であるかれが年老いた年齢まで、「なぜ全国をまわり、各地方で歌を詠むこと」ができるでしょうか。

藩政であった時代、日本には多くの関所がもうけられ、検問閲覧があったはずです。その門を悠々と通り抜け、各地をまわり、全国をめぐれたのはかつて徳川につかえ、引退(部隊退役)を終了勇退されたもののみあたえられた特権であったのだと思います。

また、全国を旅するその体力は通常の庶民では到底むりな事なのだと思います。