1955年7月28日午前10時。
三重県津市中河原海岸。
天気は無風快晴。海面には波もうねりもなくきわめて穏やか。
そんなごく普通の日に、戦後最悪と言われた
女子中学生36人が犠牲となった集団水難事故が発生する。
女子中学生達は学校行事で行われた水泳訓練に参加していた。
およそ100名前後の女子生徒が海へ入り水泳を始め、
2、3分もすると彼女達は一斉に体の自由を失ってもがき始めた。
すぐさま教員や泳ぎの得意な生徒達が救助に向かったが、
結局3分の1強もの生徒はそのまま帰らぬ人となってしまった。
この事故はすぐさまマスコミに取り上げられ、全国的な大事件となった。
国会でも事故はとりあげられ、様々な角度から科学的な検証がなされた。
どうして事故はおき、どうして多くの女生徒が犠牲になったのか?
人々の関心はやはりここに集まった。
しかし、多くの現場にいたひとの話を聞いても、
地形や天気などを検証しても結局、
確たる結論には結びつけることができなかった。
そんな中で、生還した女生徒達が口々に語った話で、
裁判や検証において取り上げられなった証言があるのだという。
その事故の時、泳いでいた女生徒達は、
沖のほうからいくつもの黒い塊が自分達の方へ向かってくるのを見たのだという。
やがて女生徒達の元へ近づいてきたそれらは、
何十人もの防空頭巾を被った女達だった。
女達は無表情な白い顔で女生徒達にとりつくと、
一人また一人と海の中へ引きずり込んでいった。
驚いた女生徒達の一部は、
防空頭巾の女達から逃げるように陸へと泳ぎ、命を取り留めた。
しかも、生き残った女生徒達はそろって同じような発言をしてるのだ。
もしこの話が事実だとすれば、防空頭巾の女達はまだ、
この海岸の沖に漂っているのだろうか?
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