歌川国芳の浮世絵:オーパーツのスカイツリー

江戸時代の浮世絵師、歌川国芳が1831年頃に描いた「東都三ツ股の図」は、オーパーツとして注目を集める作品だ。隅田川と小名木川が交わる三ツ股の風景に、現代の東京スカイツリーに似た高さの塔が描かれている。2011年、歌川国芳没後150年の展示準備中にこの塔が発見され、スカイツリー開業を翌年に控えたタイミングで大きな話題となった。江戸時代に高さ634メートルの電波塔を思わせる構造物が描かれた理由は不明で、都市伝説として「予言」や「タイムトラベル」の可能性まで囁かれている。
発見の歴史と地域的背景
「東都三ツ股の図」は、1831~1832年(天保2~3年)に描かれた浮世絵で、現在の東京都中央区中州付近、隅田川と小名木川の合流点「三ツ股」を舞台とする。絵には永代橋や佃島、船を焼く職人などが描かれ、江戸の日常が生き生きと表現されている。しかし、画面左にそびえる2本の塔、特にそのうちの高く近代的な構造物が、スカイツリーに似ているとして2011年に注目された。発見は、川崎の資料館の展示準備中に企画者が気づいたもので、メディアで大きく取り上げられた。江戸時代、幕府は江戸城を超える高層建築を禁じており、この塔の存在は当時の技術や規制を考えると異様だ。
地元の逸話と訪問者の声
「東都三ツ股の図」が話題となった2011年、展示を見た人々の間で「国芳が未来を見たのではないか」との声が上がった。地元墨田区の住民は、「スカイツリーの場所と絵の塔の位置が近い」と驚き、SNSで「江戸時代にこんな塔を描くなんて不思議」と投稿する人もいた。ある訪問者は、絵の遠近法と塔の描写に「現代の漫画のようなダイナミックさ」を感じたと語る。一方で、地元の歴史家は「ただの井戸掘り櫓では?」と冷静な意見も。毎年、墨田区のスカイツリー関連イベントでこの浮世絵が紹介され、観光客の間で「国芳の予言」として語られることが多い。これらの反応は、オーパーツとしての塔の神秘性を高めている。
オーパーツとしての塔の謎
「東都三ツ股の図」の塔の謎は、なぜ江戸時代にスカイツリーに似た高層構造物が描かれたのかにある。絵の左側には火の見櫓とされる低い塔と、隣に倍の高さの謎の塔が描かれる。当時の火の見櫓は高さ約10メートルで、20メートルを超える建築は技術的にも規制上もほぼ不可能だった。一説では、井戸掘り櫓がモデルとされるが、隅田川周辺の埋立地では井戸掘りの必要性が低く、塔の高さも説明しきれない。別の説では、国芳の反骨精神が幕府の建築規制を無視して誇張した塔を描いたとされる。また、フェルメールの「デルフトの眺望」に影響を受けたとの仮説もあり、オランダの教会尖塔を模した可能性も議論されるが、証拠は乏しい。この謎は、オーパーツとして国芳の独創性と時代を超えた想像力を象徴する。
現代における影響と象徴性
東都三ツ股の図は、現代の観光や文化に大きな影響を与えている。スカイツリー開業前後の2011~2012年、テレビや雑誌で「国芳の予言」として特集され、墨田区の観光資源として注目された。川崎や海外の美術館では、絵のレプリカが展示され、浮世絵ファンの間で話題に。地元では、スカイツリーをモチーフにしたグッズに国芳の絵が使われ、「スカイツリー飴」やTシャツが人気だ。SNSでは、「国芳がタイムトラベラーだったら?」と冗談交じりの投稿も見られ、オーパーツとしての知名度が広がっている。絵は、江戸の遊び心と現代の好奇心をつなぐ象徴として、文化的価値を高めている。
地域の反応と未来への遺産
墨田区民にとって、東都三ツ股の図は地域の誇りであり、スカイツリーと結びついた文化遺産だ。地元の学校では、浮世絵をテーマにした授業が行われ、子どもたちが国芳の作品を学ぶ機会が増えている。一方で、「ただの櫓で誇張されただけ」との見方もあり、神秘性を疑問視する声も。スカイツリーの展望台では、絵の解説パネルが展示され、観光客に人気だ。未来に向けて、デジタル技術による絵の解析や新たな浮世絵の発見が進むことで、オーパーツとしての塔の背景が明らかになる可能性もある。国芳の描いた謎の塔は、江戸の風俗と現代の想像力を結びつけ、これからも議論を呼び続けるだろう。
当HPへ寄せられたコメント
私がこれを知ったのはNHKの某ぶらり歩き番組でした。
今からおおよそ180年前、
幕末期の天保2年に歌川国芳(1797~1861年)
によって描かれた一枚の浮世絵の中に
スカイツリーらしき建物があります。国芳は奇想天外な独特の画風の
奇才天才の絵師だっただけに
未来を予言していたのではないかと話題になりました。作品名は「東都三ツ股の図」。
船大工の日常と右手に永代橋左奥手に万年橋が描かれた絵です。その万年橋辺りにスカイツリーの様な
斬新な建物があるではありませんか。見る者の好奇心を非常にくすぐります。
だが、しかしその番組では井戸堀りの為の櫓
という説で紹介されていました。また別の説ではその仮説は否定され、
どれが正しいかは絵師のみぞ知るのみです。また余談ですが井上安治という明治時代の画家が描いた
「深川仙台堀」に国芳が描いたスカイツリーは
描写されていなかったようです。彼の作品群は写実的というよりは独特のセンスの元、
自由に描かれているのが特徴的です。私の個人的な感想からすると国芳のイマジネーションの赴くままに
空想上の建物を描いていたらこんな仕上がりになっていた、
という様な奇跡のような偶然だったのかななんて思うのです。絵師は時として偉大な建設家にもなりうるのです。
きっと奇想天外の塔をデザインして
紙に建設してしまったのではないでしょうか。いくらでも現在ならこじつけられるので
夢もへったくれもありませんが、
面白い方を信じていけたら人生楽しくなりそうな気がします。
独自の視点:国芳の反骨と想像力
このオーパーツを考えるとき、歌川国芳の反骨精神と芸術的想像力が鍵となる。国芳は、天保の改革による幕府の弾圧に抗い、風刺や奇抜な作品で江戸っ子の心を掴んだ絵師だ。「東都三ツ股の図」の塔は、幕府が禁じた高層建築を意図的に描いた反骨の表現かもしれない。江戸城の天守閣(約60メートル)が焼失後再建されなかった時代、20メートル以上の塔は異例であり、国芳の「自由な表現への挑戦」が込められている可能性がある。また、国芳は西洋画の遠近法や大胆な構図を取り入れており、塔の描写は西洋の影響や未来への想像力を反映したものかもしれない。オーパーツとしての塔は、国芳の時代を超えた視野と、現代に投げかける謎の象徴といえる。


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