徳島ラジオ商殺し事件とは

徳島ラジオ商殺し事件:タブー視される冤罪捜査の教訓と未解決の闇

徳島ラジオ商殺し事件は、1953年11月5日未明、徳島県徳島市八百屋町のラジオ商「三枝電気店」で起きた強盗殺人事件である。店主の三枝亀三郎(当時50歳)が刃物で9か所を刺され死亡し、内縁の妻・冨士茂子(当時43歳)が負傷。冨士は殺人罪で懲役13年の判決を受けたが、無実を訴え続け、1979年に病死。死後、1985年に日本初の死後再審で無罪が確定した。真犯人は今なお特定されておらず、事件は未解決のまま。

この事件は、戦後混乱期の警察捜査力不足と冤罪の悲劇を象徴する。残虐な殺害手口や家族の名誉を損なう恐れから、現代ではほとんど語られず、タブー視されている。2025年現在、冤罪事件として知られるが、真犯人の謎や捜査の失敗は深掘りされにくい。本記事では、事件の経緯、歴史的背景、地域の反応、そしてタブーの理由を探る。

起源と歴史的背景:戦後の徳島と冤罪の温床

事件は、戦後間もない1953年の徳島市で発生した。戦後の混乱期、日本はGHQ占領下から主権を回復したばかりで、経済的困窮や社会不安が続いていた。徳島市は地方都市として復興を進めていたが、警察組織は国家地方警察と市町村自治体警察の二本立てで、連携不足が問題だった。1954年の警察法改正で一本化されたが、事件当時は人事異動や訓練不足が捜査に影響した。

三枝電気店は、ラジオなど電気製品を扱う商店で、戦後の電化ブームで需要が高まっていた。八百屋町は商業地で、事件当時は新店舗の建設工事が隣接しており、現場は雑然としていた。冨士茂子は三枝の内縁の妻で、9歳の娘と共に生活。彼女の貧困や複雑な家庭環境が、後に検察の内部犯行説の根拠とされたが、動機は薄弱だった。戦後の貧困と社会の混乱が、冤罪を生む土壌となり、事件はタブー視される要因となった。

事件の経緯:殺害と冤罪の連鎖

1953年11月5日未明、三枝電気店奥の住居部分で、三枝亀三郎が刃物で9か所刺され死亡。冨士茂子は左胸に浅い傷を負い、9歳の娘は無傷だった。現場には靴の足跡、中古の懐中電灯、切断された電線・電話線が残され、隣の工事現場で匕首(あいくち)が発見された。目撃情報では、不審な男が付近を歩いていたとされた。

徳島市警察は外部犯行説で捜査を開始。地元の暴力団関係者2人を逮捕し、1人が犯行を自供したが、証拠不十分で不起訴。捜査は頓挫し、1954年、徳島地検は内部犯行説に転換。冨士と住み込み店員2人(17歳と16歳)を追及し、少年たちを長期間拘束(45日と27日)。少年の1人が「冨士が夫を殺した」と供述したが、誘導尋問の疑いが強い。1955年、冨士は殺人罪で懲役13年の判決を受け、服役。彼女は無実を訴え続け、仮出所後も徳島駅前でビラを配り、支援者と共に再審請求を続けた。

1979年、冨士は第五次再審請求中に病死。親族が第六次請求を引き継ぎ、1985年7月9日、徳島地裁で日本初の死後再審が認められ、無罪が確定。真犯人は特定されず、事件は未解決のまま。冤罪の悲劇と捜査の失敗が、タブーの核心だ。

地域性:徳島市八百屋町の風景と傷跡

徳島市八百屋町は、商業地として賑わい、現在は徳島中央郵便局や四国銀行などが立ち並ぶ。事件当時は戦後の復興期で、新店舗の建設が進む雑然とした地域だった。事件現場の三枝電気店は取り壊され、跡地は再開発されたが、地元では「ラジオ商殺し」の記憶が静かに残る。住民は、冤罪で苦しんだ冨士茂子の名誉回復を尊ぶ一方、事件の残虐性から積極的に語らない。

事件は、徳島の地域社会に深い影を落とした。地元の高齢者は「茂子さんの無念が町に響く」と語り、供養のために光仙寺で祈りを捧げる。2025年、事件から72年、無罪判決から40年を迎え、支援者らが墓参りを行うなど、静かな追悼が続く。

地元の声と世間の反応

事件当時、徳島市民は「暴力団の仕業」との噂で恐怖に包まれた。徳島新聞(1953年11月)は、事件の衝撃と捜査の混乱を報じ、住民の不安を伝えた。冨士の有罪判決後、市民の一部は「動機がない」と疑問視し、支援団体が結成された。作家の瀬戸内寂聴は冨士と交流し、彼女の信念を「勝ち気で頭が良い」と評した。

2025年現在、事件を知る世代は減り、Xでは「日本初の死後再審」「冤罪の象徴」との投稿が散見される。地元住民は「過去の傷を掘り返さないで」と静かに記憶を封印。メディアの扱いが少ないのは、冤罪の悲劇と捜査失敗が地域の名誉を損なうためだ。

陰謀説:真犯人の影と捜査の裏側

事件を巡る陰謀説は、真犯人の存在と捜査の不透明さに焦点を当てる。逮捕された暴力団関係者2人のうち、1人が自供したが不起訴となったことから、「真犯人を隠した」との憶測がある。工事現場の匕首や不審な男の目撃情報が追及されなかった点も、警察の意図的怠慢を疑う声につながる。

また、検察の内部犯行説への転換は、少年への誘導尋問が原因とされ、「事件を早期に解決したかった」との説がある。Xでは「警察と検察が有力者を庇った」との投稿が見られるが、証拠は乏しい。冤罪の背景に、戦後の警察組織の混乱が影響した可能性は高い。

その後の展開:無罪判決と再審制度

冨士茂子の死後、親族と支援者(日本国民救援会や林伸豪弁護士ら)が第六次再審請求を続け、1985年7月9日に無罪が確定。日本初の死後再審として、刑事司法の歴史に刻まれた。2025年、無罪判決40周年を迎え、支援者らが光仙寺で墓参りを行い、再審制度の改正を訴えている。

真犯人は特定されず、事件は未解決のまま。冨士の遺歌集『埋み火』や、瀬戸内寂聴との共著『恐怖の裁判』は、彼女の無念を伝える。事件は映画『証人の椅子』(1965年、山本薩夫監督)や開高健の『片隅の迷路』のモデルとなり、冤罪の悲劇を後世に刻んだ。

現代への影響:タブー視される冤罪と捜査の教訓

徳島ラジオ商殺し事件は、冤罪の象徴として刑事司法の課題を浮き彫りにした。警察の捜査力不足と検察の誘導尋問が、冨士茂子の人生を奪った。2025年、袴田事件など再審の長期化が問題視され、事件は再審法改正の議論に影響を与えている。

事件の残虐性と冤罪の悲劇は、徳島市民にとって語りにくい過去だ。地元では、観光都市のイメージを守るため、事件を静かに封印。Xでは、現代の冤罪事件との比較がなされ、「捜査の失敗を繰り返すな」との声が上がる。事件は、司法の公平性と人間の尊厳を考える契機として、今も生きる。

終わりに

徳島ラジオ商殺し事件は、戦後の混乱と捜査の失敗がもたらした冤罪の悲劇だ。冨士茂子の無念と真犯人の謎が、徳島の町に静かな影を落とす。タブー視される過去だが、2025年、無罪判決40年を機に、司法の教訓を振り返る時だ。八百屋町を歩くとき、ふと彼女の声が聞こえるかもしれない。

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