1582年6月21日、織田信長が京都の本能寺で命を落とした「本能寺の変」は、日本史における未解明の事件として知られている。一般的に、明智光秀が裏切りを企てた黒幕であり、羽柴秀吉がその報復として光秀を討ったとされる。しかし、生存者からの直接的な証言が一切残されていないこと、信長に敵対する勢力が多数存在していた事実、そして秀吉の行動に不自然な点が見られることから、光秀や秀吉が黒幕という通説に疑問を投げかける見方が浮上している。ここでは、客観的な史料と状況証拠をもとに、火災に隠された真相と別の黒幕の可能性を探る。
本能寺の変の曖昧さ:証言が存在しない理由
本能寺の変は、信長が天下統一を目前に控えた時期に発生した急襲事件である。京都の本能寺で光秀の軍勢とされる集団が襲いかかり、寺は焼失。信長は自害したと伝えられ、その遺体は見つかっていない。その後、秀吉が光秀を討ったと記録されるが、注目すべきは、事件当時の生存者による直接証言が史料に残っていない点だ。
森蘭丸の弟・森坊丸や一部の女房衆が生き延びた可能性はあるものの、彼らの具体的な記述は存在しない。『信長公記』やルイス・フロイスの報告は、同時代に書かれた貴重な史料だが、いずれも現場にいた者の言葉ではなく、後日の聞き取りや推測に基づいている。この空白は、光秀が黒幕という定説をそのまま受け入れるべきか、慎重に考えるべきかを示唆している。火災が証拠を消した結果なのか、あるいは意図的な隠蔽があったのか、真相は不明のままだ。
信長の油断と敵対勢力:事件の背景
信長が本能寺で手薄な護衛しか連れていなかった状況は、事件の前提として重要だ。その理由を史料から探ると、いくつかの観点が浮かび上がる。
- 臨時の宿所
本能寺は信長の常宿ではなく、上洛中の仮の滞在先だった。近畿地方が安定していたと見なし、大軍を伴わなかったと推測される。 - 光秀への信頼
光秀は近江や丹波を統治する重臣として長年仕えており、信長がその忠誠を疑わなかった可能性がある。 - 戦前の準備
毛利氏との戦を控え、信長は出陣前の調整中だった。護衛が少ないのは一時的な状況だったのかもしれない。
しかし、この無防備さが敵対勢力にとって絶好の機会となった。信長は以下のような勢力から強い反感を買っていたことが記録に残っている。
- 比叡山延暦寺
1571年の焼き討ちで壊滅させられ、数千人の僧侶が犠牲に。残党が信長への復讐を企てていた可能性は否定できない。 - 一向一揆と本願寺
石山合戦などで本願寺を屈服させた信長に対し、宗徒たちは深い恨みを抱いていた。 - 旧幕府勢力
足利義昭を追放し、室町幕府を崩壊させたことで、旧勢力の支持者は信長を敵視していた。 - 家臣内の不満
荒木村重の離反(1578年)のように、信長の厳しい統治に反発する家臣も少なくなかった。 - 朝廷の緊張
正親町天皇との関係が悪化し、朝廷内部に反信長派が存在したとの見方もある。
これらの勢力が本能寺の変に関与した可能性は、史料に直接的な証拠がないものの、状況から見て無視できない要素だ。光秀がその一端を担ったにすぎないとすれば、別の黒幕の存在が浮かんでくる。
光秀が黒幕という通説への疑問
光秀が本能寺の変の首謀者とされる根拠は、多くの史料に記載されているが、その確実性には疑問が残る。
- 史料の間接性
『信長公記』には「光秀が『敵は本能寺にあり』と宣言」とあるが、著者太田牛一は現場に不在で、生存者の証言は含まれていない。フロイスの書簡も同様に、事件後の情報収集に依存している。 - 信忠追撃の曖昧さ
光秀が信忠を討ったことは事実とされるが、これが計画の一部か、混乱の中での即興的な行動かは定かでない。その後の天下掌握の動きも短命に終わった。 - 動機の不確かさ
信長からの屈辱や領地再編への不満が動機とされるが、『信長公記』や後世の伝承に頼る部分が多く、確固たる証拠に欠ける。 - 孤立した結末
光秀は山崎の戦いで敗れ、落ち武者狩りで命を落とした。黒幕なら支援勢力が現れてもおかしくないが、その痕跡はない。
これらの点から、光秀が単独で謀叛を企てた黒幕とするよりも、誰かに利用された実行者にすぎなかった可能性が考えられる。その場合、真の黒幕は別の勢力に潜んでいるのかもしれない。
信長の敵が黒幕か?光秀を動かした勢力の可能性
もし光秀が黒幕でないなら、信長を恨む勢力が事件を仕組んだ可能性はどうだろうか。以下に具体的な候補を挙げて検討する。
- 比叡山の残党
焼き討ち後の僧侶たちは潜伏し、信長への報復を計画していた可能性がある。光秀に接触し、実行を促したとすれば符合する。 - 本願寺と一向一揆
石山合戦で壊滅した本願寺勢力は、信長を倒すための資金や情報提供を光秀に持ちかけたかもしれない。 - 足利義昭と旧幕府
追放された義昭は毛利氏と連携し、信長打倒を企図。当時、光秀との密約の噂もあったとされる。 - 朝廷内の反信長派
信長の朝廷への圧力に反発する公家が、光秀を支援した可能性。朝廷と光秀の関係を示す直接証拠はないが、状況的にあり得る。 - 他の戦国大名
例えば上杉謙信(既に死去)や武田勝頼の残党など、信長に押されていた勢力が裏で動いた可能性も排除できない。
これらの勢力が単独または結託して光秀を利用し、本能寺の変を仕掛けたとすれば、光秀の短い支配と孤立した敗北も理解できる。火災が証拠を消したのは、こうした黒幕の意図的な工作だった可能性がある。
信長の死体消失と火災の役割
信長の死体が見つからない事実は、本能寺の変の解明を難しくしている。
- 火災の異常な効果
本能寺は完全に焼失し、『信長公記』では「焼け跡に何も残らなかった」と記録される。この火災が証拠を消し去ったのは偶然か、それとも計画の一部か。 - 側近の対応
森蘭丸らが信長の首を隠した可能性はあるが、火災の広がりがあまりにも迅速で、意図的な放火の疑いが浮かぶ。 - 隠蔽の意図
死体が残れば襲撃者の特定が容易になる。火災が証拠を消す役割を果たしたとすれば、黒幕の存在が隠されたことになる。
火災が単なる戦闘の結果ではなく、計画的な隠蔽工作の一環だった可能性は、状況証拠から見て無視できない視点だ。
秀吉の行動:英雄か真相隠蔽者か
秀吉の役割も、本能寺の変の真相に疑問を投げかける要素として重要だ。
- 中国大返しの迅速さ
毛利氏と交戦中だった秀吉は、本能寺の変の報を聞き、10日間で姫路に戻り軍を整えた。この速さは、事前に何らかの情報を得ていた可能性を示唆する。 - 光秀討伐の不透明さ
山崎の戦いで光秀を破ったとされるが、光秀の首が本物か確証はない。首実検が行われたと記録されるが、混乱の中で偽物が紛れ込んだ可能性も。 - 権力掌握の計算
秀吉は「信長の仇討ち」を掲げ、織田家重臣を押さえて天下を手中に。この政治的利用があまりにも都合よく、真相を隠した疑いが残る。 - 黒幕との関連
秀吉が信長の敵(毛利氏や義昭)と裏で連携し、光秀を犠牲にして利益を得た可能性も考えられる。その場合、秀吉は英雄ではなく共犯者となる。
秀吉の行動があまりにも完璧すぎる点は、彼が単なる報復者ではなく、事件の真相を操作した存在である可能性を示している。黒幕との関係は不明だが、その狡猾さは注目に値する。
結論:光秀でも秀吉でもない黒幕の可能性
直接証言が存在しない本能寺の変において、光秀が黒幕とする通説や秀吉が英雄とする物語は、確固たる証拠に欠ける。信長を恨む勢力(比叡山、一向一揆、旧幕府、朝廷など)が光秀を利用し、火災で証拠を消した可能性は状況から見て有力だ。さらに、秀吉の迅速な行動と権力掌握が、真相を隠した、あるいは黒幕と連携した結果であるかもしれない。本能寺の変の黒幕が光秀でも秀吉でもなく、別の勢力にあった可能性は、歴史の再考を促す視点として興味深い。
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