国鉄三大ミステリー:戦後を震わせた下山・三鷹・松川の連続怪事件

「国鉄三大ミステリー」をご存じだろうか。1949年、戦後日本の混乱が色濃く残る夏に、わずか44日間で日本国有鉄道(国鉄)を舞台に起きた下山事件、三鷹事件、松川事件のことだ。初代国鉄総裁の謎の死、無人電車の暴走、そして列車脱線事故――これらは単なる犯罪を超え、占領下の日本が抱えた政治的・社会的な暗部を映し出す。短期間に連続した異常な関連性が、戦後史の深い謎を今に残している。その真相を、史実と目撃談、そして知られざるエピソードとともに、ここで掘り下げる。

戦後混乱期に響いた三つの事件

1949年7月から8月、連合国軍占領下の日本で、国鉄を震撼させる三つの事件が立て続けに起きた。7月5日、国鉄総裁下山定則が失踪し、翌日線路で遺体となる「下山事件」。7月15日、三鷹駅で無人電車が暴走し6人を殺傷する「三鷹事件」。そして8月17日、東北本線で列車が脱線し乗務員3人が死ぬ「松川事件」。これが「国鉄三大ミステリー」だ。わずか44日間の連鎖は、戦後混乱期の不安定さを象徴する。

この時期、GHQの「ドッジ・ライン」経済政策により、国鉄は約10万人の人員削減を強いられ、労働争議が過熱。同時期に中国で共産党が勝利し、GHQは日本での共産主義への警戒を強め、「レッドパージ」を推進していた。『朝日新聞』(1949年7月20日付)は「国鉄内部が分裂状態」と報じ、労働組合と政府の対立が頂点に達していた。三事件は、この戦後混乱期の産物として、単なる偶然を超えた関連性が指摘される。

下山事件:自殺か他殺かの不明瞭な死

1949年7月5日、下山定則は自宅を出て三越百貨店に向かい、そこで消息を絶った。翌6日未明、常磐線北千住-綾瀬間で轢死体として発見。事件は自殺か他殺かで議論が分かれ、警視庁捜査一課は「自殺」、二課は「他殺」を主張した。検視では、遺体の内出血痕や血量の少なさから「事故や自殺に見せかけた他殺」の可能性が浮上。だが、雨で証拠が流され、決定的な物証は得られなかった。

目撃談では、三越で「背広の男が落ち着かない様子で歩いていた」との証言や、東武鉄道五反野駅で「下山に似た人物が電車を降りた」との報告があった。『毎日新聞』(1949年7月7日付)は「総裁の足取りが錯綜」と記し、失踪時の行動は謎に包まれた。知られざる話として、下山が総裁就任前、「人員削減を進めれば命はない」と書かれた脅迫状を受け取っていたことが後年判明。さらに、彼の妻は「夫は自殺する人ではない」と断言し、他殺説を裏付ける声となった。

政治的陰謀説も根強い。GHQや政府が、国鉄改革に抵抗する勢力を排除するため下山を狙ったとの見方だ。労働組合幹部が「事件前、総裁がGHQに呼び出されていた」と証言した記録もあり、真相は曖昧なまま闇に葬られた。

三鷹事件:暴走電車と政治の影

7月15日夜9時23分、三鷹駅で63系電車が暴走。操縦桿がロープで縛られ、無人で商店街に突っ込み、6人が死亡、20人が負傷した。『読売新聞』(1949年7月16日付)は「駅は血と叫び声に包まれた」と報じた。捜査で国鉄労組員ら11人が逮捕され、運転士竹内景助が単独犯として死刑判決を受けた。だが、彼は「事件時、風呂にいた」とのアリバイを主張する証人がいたにも関わらず、法廷で却下された。

目撃者によると、事件前、「作業着の男が線路付近をうろついていた」「車庫でパンタグラフを操作する音がした」との声が上がった。さらに、電車が待機中にヘッドライトが点灯していた点も不可解。国鉄規則では消灯が常識であり、誰かが意図的に動かした可能性が示唆される。知られざるエピソードとして、事件当夜、駅の警官4人が全員持ち場を離れていたことが後日発覚。また、竹内の妻が「夫は組合活動を嫌っていた」と証言したにも関わらず、共産主義者として裁かれた経緯が疑問視される。

政治的陰謀説では、GHQが反共政策の一環で労働運動を抑圧するため事件を仕組んだとの見方がある。証拠の曖昧さも際立ち、電車を縛ったロープの入手経路や竹内の単独行動の動機は不明。事故に見せかけた作為の可能性が、今も議論を呼ぶ。

松川事件:脱線と冤罪の連鎖

8月17日、東北本線松川駅-金谷駅間で列車が脱線し、乗務員3人が死亡。レールのボルトが緩められ、犬釘が抜かれていたことから、破壊工作と断定された。国鉄労組員10人と東芝松川工場員10人が逮捕され、初審で17人が有罪、4人に死刑判決が下った。しかし、証拠の捏造や自白の強要が発覚し、1961年に全員無罪が確定した。

目撃談では、事件前夜、「線路脇で複数の人影を見た」「金属音が響いた」との報告があった。だが、警察はこれを軽視し、被疑者から拷問で自白を引き出した。元被告・佐藤一は「足を鎖で縛られ、3日間眠らせてもらえなかった」と告白。現場で発見されたレンチとバールが誰のものかも特定されず、証拠の曖昧さが真相を遠ざけた。知られざる話として、無罪判決後、元被告が「真犯人は国鉄上層部に近い」と示唆したが、追及は進まなかった。

政治的陰謀説では、GHQと政府が共産主義勢力への見せしめとして事件を演出したとの見解がある。レッドパージの最中に起きたこの事件は、労働運動への弾圧を象徴し、事故に見せかけた可能性も議論される。関連性として、三鷹事件の組合員逮捕と手法の類似性が指摘されるが、決定的な物証は欠けたままだった。

三事件の関連性と戦後混乱期の背景

下山・三鷹・松川が44日間で連鎖した背景には、戦後混乱期の特異な状況がある。GHQの占領下、国鉄は経済再建の要でありながら、労働争議が激化。『東京新聞』(1949年8月20日付)は「国鉄は政府と組合の戦場」と評した。共産主義への警戒から、レッドパージが進行し、組合員への圧力が強まる中、三事件は一連の流れとして捉えられる。

関連性の手がかりとして、下山の脅迫状、三鷹の組合員逮捕、松川の強引な捜査が挙げられる。目撃談でも、「不審な影」や「異常な音」が共通し、計画性を匂わせる。下山事件後、国鉄職員が「総裁失踪の夜、上層部が慌てていた」と漏らし、三鷹事件後に組合幹部が「GHQの圧力が異常」と語った記録もある。松川事件の裁判官は「政治的意図が捜査を歪めた」と後年示唆した。

政治的陰謀説では、GHQが国鉄改革を強行し、労働運動を潰すために三事件を仕組んだとの見方が強い。歴史家・吉見義明は「1949年は戦後日本の転換点」と指摘し、国際情勢——中国共産党の勝利や朝鮮半島の緊張——が日本の統治に影響したと分析。だが、証拠の曖昧さから、真相は闇に葬られたまま。文化人類学的には、これらは「混乱期の不安が事件として結実した」とも解釈され、国民の記憶に刻まれた。

現代への波紋と未解明の問い

現代でも三大ミステリーは注目される。下山事件では、2002年に遺族が発見した捜査メモが議論を呼び、三鷹事件は竹内の息子が再審請求を続け、2019年に却下されたが冤罪論が根強い。松川事件は法学教育の教材となり、2020年に福島大学が資料を公開した。

印象深いエピソードとして、下山事件の線路近くで「人影を見た」と証言した住民が警察に圧力をかけられた話や、三鷹事件で「叫び声が聞こえた」と語った女性の記録が無視された事実がある。松川事件では、無罪後、元被告が「真犯人は別にいる」と示唆したが、追及は途絶えた。

未解明の謎は多い。なぜ短期間に集中したのか。自殺か他殺か、事故か作為か。政治的陰謀の証拠はどこに。決定的な物証が不足し、GHQの関与や労働運動の報復説が飛び交う。戦後混乱期の権力と抵抗の衝突が根底にあることは確かだ。1949年の夏は、日本の暗部を切り取った瞬間として、今も我々に問いかける。歴史の奥に目を凝らせば、そこにはまだ見えざる糸が絡まっているかもしれない。

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