おせんころがし殺人事件とは:戦後最大級の悲劇

おせんころがし殺人事件:連続殺人の残虐な犯行と封じられた過去とタブーの真相

1951年(昭和26年)10月11日、千葉県安房郡小湊町(現鴨川市)の断崖絶壁「おせんころがし」で、29歳の女性とその子供3人(長女7歳、長男5歳、次女2歳)が惨殺された。この事件は、犯人・栗田源蔵による連続殺人事件の象徴として知られ、合計7人の命が奪われた。母親は強姦された後、首を絞められて崖から落とされ、子供たちは石で頭を殴られた上で投げ落とされた。

この事件は、単なる殺人ではなく、戦後混乱期の貧困と人間性の喪失を反映したものとして、歴史に刻まれている。しかし、残虐な犯行の詳細と母子殺害の悲惨さから、現代ではほとんど語られることがない。事件はタブー視され、地元でも静かに記憶されるのみだ。本記事では、事件の起源、犯人の背景、経緯、そして地域への影響を、犠牲者の無念に寄り添いつつ探る。

起源と歴史的背景:戦後混乱と犯人の生い立ち

おせんころがし殺人事件の起源は、犯人・栗田源蔵の生い立ちに遡る。栗田は1926年(大正15年)、秋田県大館市で貧しい農家の次男として生まれた。幼少期から夜尿症に悩まされ、父親から厳しい虐待を受け、家族との関係が崩壊した。1940年代、徴兵されたが夜尿症のため数ヶ月で除隊され、社会的孤立を深めた。戦後、栗田は東京や千葉を転々とし、窃盗や詐欺を繰り返す生活を送っていた。

1951年の日本は、戦後の食糧難と経済混乱が続く時代だった。GHQの占領政策下で、農村部は貧困が深刻化し、犯罪率が上昇。栗田は保険金目的の殺人を繰り返し、1948年から1951年にかけて、栃木県や千葉県で被害者を出し続けた。おせんころがしでの犯行は、この連続殺人の一環で、栗田は女性を狙った強姦殺人を重ね、子供たちをも巻き込んだ。

「おせんころがし」という地名自体、民話に由来する。江戸時代、娘・おせんが病気の母のために薬草を探し、崖から転落したという悲話が伝わる。この地は、切り立った崖と荒々しい海が交錯する景勝地だが、事件により「呪われた場所」として恐れられた。戦後、こうした地方の孤立した場所が、犯罪の温床となった背景がある。栗田の犯行は、貧困と戦後の精神的荒廃を象徴し、事件は社会の暗部を映す鏡となった。

事件の経緯:残虐な犯行と発見

1951年10月11日夜、神奈川県横須賀市在住の29歳女性は、夫を探して子供3人を連れ、上総興津駅(現・行川アイランド駅近く)で佇んでいた。夫は蛇の仕入れで訪れていたとされるが、栗田はこの女性に声をかけ、自転車で同行を申し出た。女性はこれを受け入れ、長男を自転車のかごに乗せておせんころがし方面へ向かった。

道中で栗田の態度が豹変。まず、長男の頭を石で殴り、崖から投げ落とした。次に長女を同じく殴打し落とし、女性を強姦した後、首を絞めて崖下へ。背負われていた次女も投げ落とされた。被害者たちが崖下で生き延びたため、栗田は懐中電灯で探し、再度殴打して突き落とした。しかし、長女だけは草むらに隠れて発見を免れた。 翌朝、地元の僧侶が長女を発見し、警察に通報。長女の証言から事件が発覚した。女性の遺体は崖下の岩場で発見され、子供たちの遺体も近くにあった。

栗田は事件後、逃亡を続け、他の殺人を犯したが、1952年1月に逮捕された。逮捕時、栗田は複数の保険証書を所持しており、保険金目的の犯行が明らかになった。 この犯行は、栗田の連続殺人の一部。1948年から1951年にかけ、栃木県で女性を強姦殺害、千葉県で別の母子を殺害するなど、合計7人を殺した。長女の生存は、事件解明の鍵となったが、彼女のトラウマは計り知れない。

地域性:千葉県鴨川市の風景と事件の傷跡

千葉県鴨川市は、房総半島の南東部に位置し、海と山が織りなす自然豊かな地域だ。おせんころがしは、勝浦市と鴨川市をまたぐ海岸線で、約4kmの断崖絶壁が続く。江戸時代から交通の難所として知られ、民話「おせんころがし」が伝わる。事件当時、この地は鉄道が通じず、徒歩や自転車が主な移動手段だった。戦後、復興が進む中、地方の孤立性が犯罪を助長した側面がある。

事件は、地元に深い影を落とした。鴨川市の住民は、事件を「地域の恥」として語り継がず、観光地としての「おせんころがし」を強調するようになった。現在は、国道128号が内陸を走り、崖沿いの旧道は遊歩道として整備されているが、事件現場付近は静かに佇む。地元の寺院では、犠牲者を供養する行事が行われ、住民は静かに記憶を刻んでいる。

地元の声と世間の反応

事件当時、地元住民の反応は恐怖と悲しみに満ちていた。僧侶が長女を発見した小湊町の住民は、「崖下の叫び声が今も聞こえるようだ」と語り、事件を深く悼んだ。千葉新聞(1951年10月)は、興津町の住民が「母子の無念が崖に宿る」との記事を掲載し、地域の衝撃を伝えた。世間では、戦後の混乱期に起きた残虐事件として、栗田を「鬼畜」と呼ぶ声が多かった。

現代の反応は、事件を知る世代が減り、SNSで断片的に語られる程度だ。X(旧Twitter)では、「おせんころがし殺人事件は戦後最悪の悲劇」との投稿が見られ、残虐性を指摘する声が目立つ。一方、地元鴨川市の住民は、「過去の傷を掘り返さないで」と静かに記憶を封印。観光客が増える中、事件をタブー視する風潮が強い。

陰謀説:事件の隠された側面

おせんころがし殺人事件を巡る陰謀説は少ないが、犯人の生い立ちや動機にまつわる憶測がある。栗田の貧困と虐待が事件の原因とする見方が主流だが、一部では「戦後GHQの社会混乱が栗田のような犯罪者を生んだ」との説がある。また、栗田が複数の保険金殺人を犯した背景に、闇金融や地元有力者の関与を疑う声もあるが、証拠はなく、推測の域を出ない。Xでは、「栗田の死刑執行で真相が埋もれた」との投稿が見られる。

その後の展開:裁判と犯人の末路

1952年1月、栗田は逮捕され、連続殺人罪で起訴。千葉地裁で公判が開かれ、1953年に死刑判決。控訴したが、1954年に取り下げ、死刑が確定した。栗田は獄中で反省の言葉を残さず、1956年3月に死刑執行された。最後の言葉は不明だが、裁判記録では「貧困が私を駆り立てた」と供述。

事件後、地元は復興を進め、鴨川シーワールドなどの観光開発で活気を取り戻した。生き残った長女のその後は不明で、プライバシーが守られている。子孫については情報がなく、事件の記憶は薄れている。2025年現在、事件現場付近に石碑や供養碑が建てられ、住民が静かに祈りを捧げている。

現代への影響:タブー視される悲劇と地域の癒し

おせんころがし殺人事件は、戦後日本の暗部を象徴し、現代の犯罪報道や被害者支援に影響を与えている。残虐性からメディアで取り上げられにくく、タブー視されるが、Xでは「母子の無念を忘れない」との声が上がる。鴨川市は観光地として再生し、事件の傷跡を自然の美しさで癒そうとしている。住民は、犠牲者の魂に敬意を払い、未来への一歩を踏み出している。

事件は、貧困と孤立がもたらす悲劇を教訓として残る。2025年、戦後80年を迎え、こうした過去を振り返る動きがあるが、残虐性のため慎重に扱われる。地域は、癒しを模索しつつ、静かな記憶を刻んでいる。

終わりに

おせんころがし殺人事件は、母子3人の無念と連続殺人の闇が、千葉の断崖に深い影を落とした。犯人の末路は決着したが、犠牲者の悲しみは今も地域に響く。歴史的背景と残虐性がタブーを生んだが、住民は彼らの存在を偲び、未来を紡ぐ。次に鴨川の海を眺める時、ふとその記憶に思いを馳せるかもしれない。

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