ある静かな秋の夜、田舎町に住む20代後半の女性は、自宅の古い鏡の前で髪をとかしていました。彼女は都会からこの小さな町に引っ越してきたばかりのOLです。実家から譲り受けた古い一軒家は、どこか懐かしくもあり、不気味な雰囲気もありました。特にその鏡は、木枠に細かい彫刻が施されたアンティークで、祖母が「大事にしなさい」と言い残したものだったのです。

その夜、彼女は鏡に映る自分の顔を見ながら、何か違和感を感じました。部屋の明かりが少し暗いせいか、鏡の中の自分がいつもよりぼんやりしているように見えたのです。「疲れてるのかな」とつぶやき、彼女は特に気にせずベッドに入りました。しかし、その日から奇妙な出来事が始まるのです。

翌朝、鏡の前に置いてあった櫛がなくなっていました。家中を探しても見つからず、不思議に思った彼女は「昨日、ちゃんと置いたはずなのに」と首をかしげました。仕事から帰宅すると、今度は鏡の表面に薄い曇りがかかっていることに気づきます。拭いても拭いても、すぐに曇りが戻ってくるのです。「古い鏡だから仕方ないか」と自分を納得させつつも、彼女の心には小さな不安が芽生え始めました。

数日が経ち、彼女は毎晩のように奇妙な夢を見るようになりました。夢の中で、彼女は鏡の前に立っています。すると、鏡の中の自分が突然笑い出し、ゆっくりと手を伸ばしてくるのです。目が覚めると汗だくで、心臓がドキドキしていました。「ただの夢だよ」と自分に言い聞かせましたが、夢のリアルさが彼女を不安にさせました。

ある晩、仕事で遅くなった彼女が家に帰ると、鏡の前に小さな人影が立っているように見えました。一瞬のことでしたが、驚いた彼女は電気をつけて確認しました。しかし、そこには誰もいません。ただ、鏡の表面にはまたしても曇りが広がっていて、なぜかその曇りの中にうっすらと手の形が浮かんでいるように見えたのです。

「まさかね」と笑いものにしようとしましたが、その夜から異変はさらに顕著になりました。家の中で物が勝手に動いたり、夜中に誰かが歩くような音が聞こえたりするのです。特に鏡の前を通るたび、背筋がゾッとする感覚が強まりました。彼女は次第に鏡を避けるようになり、リビングに布をかけて隠してしまいました。

しかし、ある雨の夜、彼女が寝ていると、突然大きな音が家中に響きました。飛び起きた彼女が音のする方へ向かうと、リビングで布が床に落ち、鏡がむき出しになっています。そして、その鏡の中には、彼女ではない誰かが映っているのです。暗くて顔ははっきり見えませんでしたが、その人影はゆっくりと首を傾げ、こちらを見ているようでした。

恐怖に震えた彼女は、鏡を処分しようと決意しました。翌日、知り合いの古物商に連絡し、鏡を引き取ってもらう手配をしました。しかし、その夜、古物商が来る前に最後の異変が起きます。深夜、目を覚ました彼女は、部屋が異様に冷えていることに気づきました。ベッドから起き上がり、リビングへ向かうと、鏡の前に再び人影が立っているのです。

今度ははっきりと見えました。それは、ぼろぼろの服を着た、顔の白い女でした。目が異様に大きく、口元が不自然に歪んでいます。彼女が悲鳴を上げると、女は鏡の中から手を伸ばし、ガラスを突き破るようにこちらへ向かってきました。パニックに陥った彼女は逃げようとしましたが、足がすくんで動けません。女の手が彼女の腕をつかんだ瞬間、意識が遠のきました。

目が覚めると、彼女は床に倒れていました。鏡を見ると、女の姿は消えていましたが、ガラスにはひびが入り、そのひびの隙間から何か黒い液体がにじみ出ていました。震える手でそれを触ると、冷たくて粘り気のある感触がしました。「何!?」と叫んだ瞬間、鏡の中から低い笑い声が響き渡ったのです。

翌朝、古物商がやってきて鏡を引き取っていきました。彼女は全てを説明しようとしましたが、言葉にならず、ただ「早く持って行ってください」と懇願しました。業者は不思議そうな顔をしながらも、鏡をトラックに積み込んで去っていきました。それ以降、家の中の異変はぴたりと止み、彼女はようやく安心して眠れる日々を取り戻しました。

しかし、数週間後、彼女は偶然、古物商の店を訪れる機会がありました。店主に「あの鏡はどうなったんですか?」と尋ねると、彼は少し困った顔をしてこう言いました。「あれね、倉庫に置いてたんだけど、変なことがあってさ。夜中に勝手に動く音がするって従業員が怖がってね。結局、処分に出したよ。でも…」と彼は言葉を濁しました。

「でも、何ですか?」と彼女が聞くと、店主は声を潜めてこう続けました。「処分する前、鏡をよく見たらさ、中に何か映ってるみたいだったんだ。ぼんやりした女の顔が…。でも、誰も近くにいなかったんだよ。」

その言葉を聞いた瞬間、彼女の背筋が凍りました。あの女は鏡と一緒に消えたわけではなかったのです。鏡がなくなった今、どこにいるのか。彼女はふと、自分の背後にある店の大きな鏡に目をやりました。そこには彼女自身の姿が映っています。でも、よく見ると、その瞳の奥に、かすかに歪んだ笑顔が浮かんでいるように見えたのです。

彼女は慌てて店を出ましたが、それ以来、鏡を見るたびに同じ笑顔がちらつくようになりました。そしてある夜、自分の部屋の窓に映る影が、彼女のものではないことに気づいたとき、ようやく理解したのです。あの女は、鏡の中から出てきて、今は彼女のすぐそばにいるのだと。