いまだ忘れもしない小学2年生のときの出来事。
下校時刻のこと。午後から急に降り始めた雨に、
私は通っていた学校の玄関で立ち尽くしていた。
雨具は持ってきていない。
そして空の雲は重く垂れこめていて、
天候が好転する気配はまったくなかった。
まだ雨脚はそれほど強くない。
突っ切るなら今のうちかもしれない。
意を決した私は雨中に飛び出していった。
普段よく遊ぶ公園の脇を通り、
消防署の前を大きな水たまりを避けながら駆け抜け、
家への行程の中ほどにあたる小さな十字交差点へさしかかる。
衣服は水を吸って重くなり、
靴の中で靴下の指先がじっとり湿って不快だった。
横断歩道の前で信号待ちをしていると、
それまで間断なく私の全身を打っていた雨粒の感触が、
ふいに途切れた。
不審に思って空を見上げてみると、
目に入ったのは金属の骨組、
そして透明なビニール地だった。
誰かが背後から傘を差しかけてくれているらしい。
振り返ろうとしたとき、信号が青に変わった。
頭上の傘も促すようにやや前に傾けられる。
何者かの気配に背を押される感じがして、
私は横断歩道を渡り始めた。
そのまま自宅のある住宅地に入った。
何度か振り返ってみたものの、
そのつど私の背中側へと回り込んでいるのか、
そこには何の姿も無い。
手段を変えて首をひねり、
精一杯の横目使いで背後をうかがっても、
そこにあるであろうはずの大人の脚を目にすることはできなかった。
そのくせ頭上には傘が差しかけられたままなのだった。
この怪異に幼い私は恐怖に慄いていたかというとそんなこともなく、
(世の中こういう不思議なこともあるんだなあ…)といった
呑気すぎる思いを抱きながら、背後の何かがついてくるままに
帰路を歩き続けていた。
ついに家の前までやってきた。
低い階段の上にある玄関の扉を開け、
「傘さん」はどうするのかなと、
振り返った私は「それ」と同じ視点の高さで
向かい合うことになった。
半面が無残に潰れた女の生首が、
傘の柄を咥えて宙に浮いていた。
悲鳴も上げられず、凍りついたようになっている私を前に、
生首は少し悲しげな笑みを浮かべると、次の瞬間には掻き消えた。
投げ出されて上下逆さになった傘だけが、
静かに雨に打たれ続けていた。
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