ある夏の夕方、30代の男性は、会社からの帰り道でいつもと違うルートを選びました。彼は最近引っ越してきたばかりで、新しいアパートの周辺を散策してみようと思ったのです。古びた住宅街を歩いていると、細い路地の奥に小さな階段が見えました。コンクリート製で、苔むしていて、どこか寂しげな雰囲気です。階段の上は薄暗い木々に覆われていて、どこに続いているのか分かりませんでした。
「近道になるかな」と軽い気持ちで階段を登り始めました。13段ほど登ると、小さな広場のような場所に出ました。そこには古いベンチと錆びた街灯が一つあるだけで、他には何もありません。少し不気味に感じたものの、彼は特に気にせず、広場を抜けてさらに進むと、再び別の階段が現れました。今度は下りです。
下り階段を降りていくと、途中で妙な感覚に襲われました。足音がいつもより大きく響くのです。しかも、自分の足音にしては少し遅れて聞こえるような気がしました。「エコーかな」と自分を納得させつつ、彼は階段を降り続けます。しかし、段数がおかしいことに気づきました。登ったときは13段だったのに、下りは20段を超えても終わりが見えないのです。
不思議に思いながらも、彼はようやく階段を降りきりました。すると、そこはさっきの路地とは全く違う場所でした。薄暗い空の下、古い家々が立ち並ぶ見知らぬ通りです。携帯を取り出して地図を確認しようとしましたが、なぜか電波がなく、画面が真っ黒のまま動きません。少し焦りながら、彼は来た道を戻ろうと階段を見上げました。すると、階段の上にぼんやりとした人影が立っているのです。
その人影は、遠くで小さく見えるはずなのに、なぜか異様にはっきりと見えました。ぼろぼろの服を着た、顔のない影のような存在です。彼が息を呑むと、人影はゆっくりと階段を降り始めました。一段、また一段と近づいてくるたび、足音が重く響きます。彼は慌てて踵を返し、走ってその場を離れました。
なんとか見覚えのある通りに戻った彼は、汗だくでアパートに帰り着きました。落ち着いてから考えると、あの階段のことが頭から離れません。次の日、好奇心に負けて再びその路地を探しましたが、どこにも見つかりませんでした。まるで昨夜の出来事が夢だったかのように、階段は消えていたのです。
それから数日後、彼は奇妙なことに気づきました。アパートの部屋で、夜中に階段を降りるような足音が聞こえるのです。最初は上の階の住人だろうと思いましたが、彼の部屋は最上階。しかも、足音は部屋の中から聞こえてくるような気がしました。ある夜、意を決して音のする方へ近づくと、部屋の隅にあるクローゼットの奥から、低い足音が響いているのです。
恐る恐るクローゼットを開けると、そこには何もありません。ただ、壁の奥からかすかに「トン、トン」と音が続いています。彼は壁を叩いてみましたが、音は止まらず、逆に少しずつ大きくなっていくようでした。その夜から、彼は眠るたびに夢を見ます。夢の中で、彼はあの階段を永遠に降り続けています。そして、背後から近づいてくる足音が、いつも少しずつ彼に近づいているのです。
ある日、会社で同僚にその話をすると、一人が不思議そうな顔でこう言いました。「階段ってさ、もしかしてあそこじゃない?昔、その辺に変な噂があったんだよ。夜になると現れる階段があって、降りると元の場所に戻れないって。戻れたとしても、何かがついてくるって話だったけど…冗談だと思ってた。」
その言葉に、彼の顔から血の気が引きました。あの夜以来、彼の部屋の足音は毎晩少しずつ近づいてきています。そしてある夜、目を覚ますと、ベッドのすぐ横で「トン」と重い音がしました。恐る恐る目をやると、そこには何もありません。でも、枕元に小さな苔の跡が残っていて、彼は確信したのです。あの階段の裏側から、何かが彼を追いかけてきたのだと。
それから彼は、鏡や窓に映る自分の影を見るたび、それが本当に自分なのか分からなくなりました。時折、影の端が少し歪んで、階段を降りるような動きをしているように見えるのです。そして今も、夜が深まるたび、彼の部屋にはあの足音が響き続けています。


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