ある梅雨の時期、40代の男性は、仕事帰りに駅前のコンビニで傘を買いました。彼は普段、傘を持ち歩く習慣がなく、その日も突然の雨に降られて慌てて購入したのです。安物のビニール傘でしたが、透明で軽く、特に不満はありませんでした。帰宅途中、雨は小降りになり、彼は傘を閉じて手に持ったままアパートへ向かいました。

その夜、彼が寝ようとすると、どこからか小さな音が聞こえてきました。「カサ…カサ…」と、まるで誰かが傘を開閉するような音です。最初は風でカーテンが擦れる音かと思い、気にせず眠りにつきました。しかし、次の夜もその音は聞こえ、今度は少し近くに感じました。目を覚まして耳を澄ますと、確かに部屋の中から響いているようです。

不思議に思った彼は、部屋を見回しました。買ったばかりの傘は玄関に立てかけてあり、特に動いた様子はありません。音の出どころを探しましたが、何も見つからず、「疲れてるのかな」と自分を納得させて再び眠りました。それでも、音は毎晩聞こえるようになり、少しずつ大きく、はっきりと感じられるようになっていきます。

数日後、彼は仕事から帰宅したとき、玄関で妙なことに気づきました。傘が立てかけてあった場所から少しずれているのです。「風でも入ったのかな」と首をかしげつつ、彼は傘を元の位置に戻しました。しかし、その夜、音はさらに近くで聞こえました。今度は「カサッ、カサッ」と、リズムを刻むように規則正しく、まるで誰かがすぐそばで傘を弄んでいるような感覚です。

彼は意を決して、夜中に音のする方へ目をやりました。すると、暗闇の中で、玄関の方から何か小さな影が動いたように見えたのです。慌てて電気をつけると、そこには何もありません。ただ、傘がまた少し動いていて、先端が床に軽く触れていました。「自分で動くはずないよな」と呟きつつ、彼は少し怖くなり、その晩はリビングのソファで寝ることにしました。

翌朝、彼は傘をゴミに出すことに決めました。音の原因が傘かどうかは分かりませんが、気味が悪かったのです。しかし、ゴミ捨て場に置いたはずの傘が、夕方帰宅すると玄関に戻っているのです。ぞっとした彼は、今度は自分で近くの川に捨てに行きました。傘が水に流されるのを見届けて、ようやく安心した気持ちで家に戻りました。

その夜、音は聞こえませんでした。彼はほっと胸を撫で下ろし、久しぶりにぐっすり眠れました。しかし、次の日、異変が起きます。朝、目を覚ますと、枕元に小さな水滴が落ちていました。天井を見ても漏れている様子はなく、不思議に思いつつ出勤しました。帰宅すると、今度は床に水たまりができています。どこから来たのか分からず、彼は拭き取ってそのまま寝ました。

それからというもの、彼の部屋では毎日のように水滴が現れるようになりました。床、テーブル、時には服の上にまで、小さな水たまりができるのです。そして、ある夜、彼は再びあの音を聞きました。「カサ…カサ…」。今度ははっきりと、ベッドのすぐ横から聞こえてきます。恐る恐る目をやると、そこには何もありません。でも、床に濡れた足跡のような跡が残っていて、それがゆっくりと彼の方へ近づいているように見えたのです。

慌てて飛び起きた彼は、部屋中を確認しました。しかし、誰もおらず、ただ足跡だけが残っています。その日から、彼は夜中に目を覚ますたび、濡れた足跡が少しずつベッドに近づいていることに気づきました。そしてある晩、ついにその足跡がベッドの端に達したとき、彼は背後に冷たい気配を感じました。振り返る勇気はなく、ただ息を殺して朝を待ちました。

翌日、彼は友人に相談しました。すると、友人は少し考えてからこう言いました。「その傘さ、もしかして誰かが使ってたものじゃない?捨てられた傘って、たまに変な噂があるよ。持ち主が手放したくないものだと、戻ってくるって話、聞いたことある。」

その言葉に、彼は青ざめました。あの傘は新品のはずでしたが、よく考えると、コンビニで買ったとき、袋に入っておらず、なぜか少し湿っていたような気がしたのです。それ以来、彼は部屋で音を聞くたび、それが傘を開く音なのか、誰かが近づく音なのか分からなくなりました。そして今も、夜が深まると、どこからか小さな水滴が落ちる音が聞こえ、彼の眠りを妨げ続けています。